まどろみ防御

竹田寿之

 遠くで何やらけたたましい音がしている。まるで水底に生じた気泡がしだいに水面に 近づいてくるように、ぼーっとした意識がだんだんとはっきりしてくる。そして、水 面で気泡がぱちんとはじけるような感じで目が覚めてしまった。まだ半ばしびれたか のような頭を振りながら起き上がる。背骨に鉛でも仕込まれでもしたかのように体が 重い。時計を見るとまだ朝の5時すぎである。
 ちいっ。今日も3時間ほどしか眠れなかったか。
 ぼくはいったん目が覚めてしまうと二度と眠れないタイプである。澱のように重い体 をゆるゆるとベッドの上に起こすと、「あいつを・・・。あの騒音の元を何とかしな ければ・・・」と考え始めた。

 完全に目が覚めてしまってからも、隣の家から伝わってくるけたたましい大音響はま だ続いていた。
 夜の静謐と平穏が破られるようになったのは、あいつが隣の家にやってきてからだった。
 ぼくはベッドの上で一カ月ほど前の隣のおばさんとの会話を思い出していた。
「朝っぱらからこんなに騒ぎ立てられて、寝入りばなをたたき起こされる。本当に迷 惑しているんです。何とかなりませんか」
「あの子はねぇ、とある施設から引き取られてきたばかりなのよ。環境が変わってし まって、情緒不安定になっているんだと思うわ。もうしばらくしたらおとなしくして くれるようになると思うから、ちょっとの間辛抱してくださいませんか」
「そうは言いますけど、そのことが朝から大音響を立てていいということの言い訳に はなりませんよ。この辺に住んでいる学生は深夜まで勉強したりしているわけです。 現にぼくなども毎日深夜まで実験したりして、疲れ果ててアパートに帰ってきて、よ うやく仕事の興奮がさめてうとうととまどろみかけたところでいつもあの大音響にた たき起こされるんですよ。たとえば大学病院の看護婦さんなどなら、夜勤の方だって いるかもしれない。そういう方たちの迷惑は考えないんですか」
「そうは言いますけどねぇ、学生さん、あの子は本当にかわいそうな子なんですよ」
 これ以上何を言っても無駄らしい。なおもくどくどと弁解を続けるおばさんを背に、 その日は引き下がることにしたのだった。

 もう決めた。あいつを毒殺してしまうしかない。
 ぼくはその日の朝、研究室の薬品庫を開けると、試料作成に使った残りの金属タリウ ムを取り出した。重金属というやつはたいてい有害なものだが、こいつは重金属の中 でも特に毒性が高い。取り扱うときはドラフターという排気装置の中で、ゴム手袋を して取り扱うくらいである。大学の廃液処理センターですら、この物質やその化合物 は手に負えないから、持ち込まずに各研究室で保管するようにという指示が出ている ほどの劇物である。こいつをあいつに飲ませてしまえば、あいつはいちコロのはずだ。

 詳しくは書けないが、ぼくの立てた計画は完璧なはずである。ぼくの犯行であること がばれることはおそらくあるまいし、途中で見とがめられたとしても、せいぜいで住 居不法侵入とか器物損壊罪にしか問われない。まかり間違っても大きな罪に問われる ことはありえない。

 ぼくはいつもよりは少し早めに帰宅すると、そっと隣のうちに忍び込んだ。懐中電灯 の弱々しい明かりを頼りに、いつもあいつが寝ているはずの場所へ急ぐ。
 ところが、いつもあいつが寝ているはずの場所に、あいつはいなかった。

 そして、次の日の朝、なぜかいつものけたたましい音は隣家から聞こえてこなかった 。ぼくは、不審に思ったふりをして、隣の家に事情を聞きに行った。
「他の方からも苦情が来まして、本当に悲しいことなのですが、私たち、あの子を手 放すことにしましたの。」
 それを聞いてぼくは何かほっとしていた。完全犯罪が成り立ち、絶対に捕まることが ないのだとしても、そして、あいつの立てる大音響が近所中の迷惑なのだとしても、 やっぱり命あるものの生命を奪ってしまうのは罪悪感を感ぜざるを得ないし、やっぱ り寝覚めが悪い。

「あいつ」がたとえ、農水省傘下のとある研究施設から引き取られてきた、毎日律儀 に時を告げるオンドリだったとしても。


(この物語はフィクションであり以下略)
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