まほろば消去

紅蘭るい

 人生の転機は、いつも突然訪れる。
 私が作家になった時も、そうだった。
 たまたま遊び半分で書いた小説が、編集者の目に留まり、あっという間に本になって、いくつかの賞を獲得した。
 気がつくと、わたしは新進気鋭の推理作家、という事になっていた。
 ただでさえ多忙だった毎日が、それこそ、殺人的なスケジュールで埋め尽くされることになった。
 大学の助教授としての仕事と、作家として受けざるを得ない、新たな種類の仕事。
 全く異なる二つの仕事が、私の時間をすべて奪い去り、
 余裕のなさから来るストレスで、神経はズタズタだった。
 そんな私にも、唯一、くつろげる時間があった。
 それは、趣味ではじめたインターネットのホームページを開く、ホンのわずかなひとときである。
 私のホームページは、作家活動をはじめてからは、作品の読者からの感想や雑談でうめつくされるようになっていた。
 おもに学生や、20代の会社員など、若い人たちが、実にいろいろな書き込みを寄せてくれる。
 自分の書いた小説に対する、さまざまな反応を楽しみ、論争や冗談めいたやりとりで、日常の憂さを晴らす。
 慰みにはじめたホームページだったが、いつしか空き時間の殆どを、そこの更新に費やすようになり、ついには、研究室の学生に管理を任せて、会議室のような物にまで広げてしまった。
 私は次第に膨らんでいく会議室の、いわば、顧問といった立場をとり、投稿者たちをもてなすことに専念した。

 こういうのを、ネット中毒者というのかもしれない。

 会議室はどんどんアクセスされるようになり、サーバーが停止するほどの盛況ぶりを示していた。
 増設に次ぐ増設を繰り返して、いつの間にか半年が過ぎ、ようやく体裁が整ってきた頃のことだ。
 出版社から送られてきた、精神分裂をテーマにした新作小説を読んでいたとき、ふいに、あるアイディアが、脳裏にひらめいた。
 3月も半ばを過ぎて、ちょうど大学の仕事も一区切りついたところだったし、新作小説も上梓したばかり。
 時間の余裕ができて、久しぶりにのんびりしていたせいもあるだろう。
 私は、ネット上に架空の人物を創造し、その名前を使って、自分の会議室に参加する、という、密かな楽しみを思いついた。
 自分のホームページに対して、私は以前から、根強い不満を抱いていた。
 作家という立場上、どうしてもネットでの発言には気を使い、自然、口数も少なくなってしまう。
 言いたいことの半分も言えないもどかしさに、苦しい思いをしていたのだ。
 だから、この思いつきは、まさに、天啓だった。
 思うように発散できないでいる自分に、抜け道を与えてやるのだ。
 ミステリィ作家ならではの道楽だ。
 何処まで他人をだまし通せる物か、自分の作家としての力量を試す、絶好の機会でもある。
 もしも、参加者に見破られたら、創作の一つの試みだったと言えばいい。
 この、小さな思いつきに、わたしは子供のように夢中になった。

 もう一人の私は、私自身とはまったく別の人格に設定しなければならない。
 性別は、女性。理系の私に対して、彼女はこちこちの文系にし、コンピューターにはからきし弱い、という特性を付けた。
 私が苦手とする、SFと江戸川乱歩を愛し、私が普段全く見ないテレビドラマを、欠かさず見ているテレビオタクにした。
 あんまり実像との差を広げるのも危険なので、星座と血液型を同じにし、趣向の一致をはかってみる。
 作家としての私はクールで落ち着いたイメージを持たれていたから、彼女には、情熱家でおっちょこちょいな性格を与える。
 住所は次回作の舞台となる九州N市ということにしたが、全く知らないと問題なので、昔行ったことがある、火山で有名なK県の出身で、転居して日が浅いことにする。
 年齢は最初20歳にするつもりだったが、どうしても知識や口調に問題があるため、会議室利用者の平均年齢と、自分の実年齢との中間に設定した。
 それは、結果的に、昔話にも最近の話題にもついていける、絶好の年代に該当した。

 こんな具合に、どんどんアイディアが浮かんできて、あっと言う間に架空の人間ができあがってしまった。
 やや突飛なハンドルネームを考えついた時には、すっかり準備は整っていた。
 私は、おそるおそる、自分のホームページに書き込みをはじめた。

 思いつきではじめた小説が売れたように、この気まぐれに創造した人物は、ネット上で思わぬ効果をもたらした。
 それまで自他共に認める寡黙な男だった私が、ネットの上では恐ろしく饒舌になり、ときには寝食を忘れて何時間も書き混み続けるほどになった。
 会議室は私の創造した女性の発言に翻弄され、ますます活況を呈してきた。私はネットの上で、一人二役を演じ、チャットのような会話を楽しみ、自分自身の考えを双方の議論という形で提供する遊びに、のめり込んでいった。

 そんな不健全とも言える遊びが一月も続いた頃、またもや転機が訪れる。
 妻が、私の変化に気づきだしたのだ。
 無理もない。
 読んだこともない小説をよみ、めったに見ないテレビを見て、ついには家にケーブルテレビを導入しようと言いだせば、大抵の妻はおかしいと思うだろう。
 だが、私の妻の場合は、困ったことに、その疑惑が、ちょっと変わった方向に向かってしまった。
 彼女は、あろうことか、私が作り出した架空の女性と、私との仲を疑いはじめたのだ。
 二人で行った取材旅行の際に、知り合いの役者に頼んでその女性役を演じてもらったのが、災いした。
 間近に迫ったオフラインミーティングへの布石として、妻を証人に、その女性の存在を、確固たるものにしようとしたつもりだったのだが。
 頼んだ役者が、美貌の人だったための誤解だった。
 とうとう、悪ふざけのつけがまわってきたのだ。

 もちろん、私は否定した。だが、否定すればするほどに、妻の中で疑惑が深まっていったのは、ありがちなミステリィのように、しごく当然のことだった。
 妻は私のホームページにしばしば介入するようになり、私の留守中に勝手に書き込みをしたり、彼女を挑発するような発言を繰り返したりしはじめた。
 そして、ついに、私宛のメールをチェックするようになった。
 ある日、妻は、彼女宛のメールの隠し場所に気がついて、血相を変えて飛んできた。

 こうなると、もう、隠しておくことはできない。
 私は妻に、正直に、事実を打ち明けた。
 これで、すべてが丸く収まるはずだった。
 だが、ここに一つの誤算があった。妻は、正義の人だったのだ。
 あなたのやっていることは、読者に対する裏切り行為だ、と、妻は激しく私を糾弾した。
 そして、自分がこの真実を暴露して、すべてを明らかにしてやるのだ、と、叫ぶやいなや、部屋を走り出ていった。
 いく先はわかっていた。コンピュータの置いてある、私の書斎だ。
 私は仰天し、無我夢中で後を追った。
 そして、マウスに手を伸ばそうとした妻に追いつき、咄嗟に腕を掴んで、引き戻した。
 思いがけない力が、妻のバランスを崩させた。
 鈍い音がした。柱にたたきつけられた妻の体は、そのままずるずると崩れ落ちた。
 悪夢だ。何という、悪夢。
 救急車が到着し、手術室のランプの赤い色が消えるまで、わたしは魂のない人形のように、茫然自失状態になってしまった。

 恐ろしい一夜があけた。

 幸い、妻は一命をとりとめた。ショックのために、怪我をした前後の記憶は失われていた。
 皮肉なことに、争いのきっかけを産んだホームページで、夫婦仲の良さが知れ渡っていたため、誰一人として、私を疑う者はなく、すべては事故と言うことで処理された。

 それからの私は、妻の回復にのみ自分のすべてをそそぎ込んだ。記憶の消失は、妻にとっても、私にとっても、とても幸福なことだった。
 私達は、なにごともなかったように、仲のいい夫婦に戻った。
 そして、あの事件は、穏やかな毎日の後ろに、過去の些細な出来事として、封印されていった。

 今ここで、私は事件のすべてを小説という形で告白した。
 ホームページは閉鎖し、私は作家を廃業することにした。
 あの、私が創造した女性は、それと知られぬまま、闇に消えていくことになる。
 すべてを謎のままで、創作か事実かを明らかにしないことが、読者に対してのせめてもの罪滅ぼしだ、と、私は思う。
 だから、この小説で語られたことが真実であるかどうかは、読者の判断に任せたい。

 私は今、妻との穏やかで満ち足りた日々に満足している。
 最近になって気づいた事実がある。
 それは、あの女性の性格が、妻にそっくりだったということ。
 だからこそ、彼女はリアリティを持ち、わたしとの会話にも、破綻がなかったのだ。
 そして、だからこそ、私は架空の存在である彼女にあれほど執着したのだった。

 私は、やはり、妻を心から愛している。
 人間はそうそう自分を偽って生きられる者ではないらしい。
 今の私は、ただの助教授にすぎないが、結局は、それが一番自分にふさわしい姿なのかもしれない。
 私の想像力では、妻以上の者を生み出すことはできなかったのだから。

 だが、今でもときどき、私の中で、別の声が聞こえることがある。
 知るはずのない知識を持ち、好むはずのないフレーズを口にする、もう一人の私の声。
 そんなとき、私は、ただ黙って目をつぶり、安い酒の力を借りて、まどろみの中で耳を閉ざす。
 さらば、愛しい君。
 そして、ぼんやりと浮かぶイメージの中で、ゆっくりとキィを押して、すべてを消去する。  一度も見たことがない、そして、この先も決して見ることのできない、一人の女性の、幻の微笑みを、忘れるために。


(この物語はフィクションであり以下略)
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