「これって、何かの試練なんですか?ああ、そうね、きっと私をお試しになっているのね、こっそりエクセルで折れ線グラフでも書いてるんでしょう」
「そんなこと絶対にしていないよ」
弱々しく浅野川が答える。
第一、グラフを書いてデータを整理するなら、エクセルを使うより、カレイダグラフあたりを使うはずじゃないかという考えが頭をかすめたが、逆効果にしかなりそうにないので、浅野川は口にはしなかった。
「そう、第1回目が1時間20分でしたわ。私、あのときは全然怒りませんでしたものね。2回目が1時間10分、3回目が1時間5分、そして今回が1時間3分」
まるで前もって予習でも繰り返していたかのように次々に事実を突きつける。
「 東之園君、いつもながらすばらしい記憶力だね。今日は正確にはドアのところで1時間2分30秒の遅刻だったんだけどな」
秒単位の正確さを愛する浅野川は30秒ぶんのささやかな抵抗を試みた。
いつもであれば、彼のほめ言葉と理系的な緻密さは彼女の機嫌を直すための強力な武器であったが、今日ばかりはまったく効果がなかった。
萎絵は、きっとした視線を浅野川につき刺すと、脱いだばかりのコートをソファにたたきつけた。
彼の本当にささやかな抵抗も完全に無視すると、続ける。
「どんどん短くなってきているわ。遅刻の時間を単調減少させてデータを取っているんですね、先生。ああ、こうやってどんどん私は気が短くなっていくんだわ、もう、このままあと5年もしたらきっと世界で一番気の短い女になるんだわ、私…」
浅野川はふっとあることに気付くと、微笑みながら言った。
「そうは言うけれどね、 東之園君、君は世界一気の短い女には絶対にならないと思うよ」
「え?」
「僕の遅刻した時間だけれどね、1回目が1時間と20分だったよね」
すこし間をおいて萎絵の反応をうかがってから、続ける。
「それから、2度目が1時間と10分、3度目が1時間と5分、そして今回が1時間と2.5分。これで間違いなかったね」
「えっ、ええ。そうですけど」
一瞬、毒気を抜かれたように萎絵が答える。
「1時間というげたを履いて、きれいに指数関数曲線に乗っているからね」
「え??」
「だから、1時間に漸近するけれど、絶対にそれ以下にはならない」
新しいおもちゃを与えられた子供のように嬉々として、浅野川はたった今気付いた、この確かに”数学的には”美しい事実を説明することに夢中だった。
このため、萎絵の柳眉がその間ジリジリと逆立ちつつあることには全く気づかなかった。
そして…。…振り返って彼女の顔を見、彼女の形相に気づいた瞬間、彼は決定的敗北を悟った。
ぷっつん。
その瞬間、萎絵の精神から最終安全装置が外れる音を浅野川は確かに聞いた気がした。
「ひ、ひ、 東之園君。お、お、おちついて」
「きーっ!」
………。
夜はこれから二人で気まずい時を過ごすにはまだあまりにも長く、これから仲直りをするにはあまりに短そうであった………。
(遅刻の)黙認(も)三度(まで) 完。