知的痴的ジャック

うえだたみお

「先生、私、殺人事件に遭遇したことがあるんですよ」
 今日の萎絵の第一声も、これであった。
 某県立T大学工学部研究棟にある一室に、そのスペースの持ち主である浅野川が落としたマグカップが割れる音が響いた。浅野川の足元には、欠けたカップとコーヒーが散乱している。ああ、また割ってしまったな……しかし、カップはともかくコーヒーが「散乱」というのはちょっとおかしくないか? さて、どんな単語が最も適当だろう? ……浅野川はそんなことを考えながら、萎絵に近付いた。
「殺人……事件? 東之園君が? ……事件のもみ消しなら叔父さんにお願いしなさい。僕にそんな力はないからね。まあ、アリバイ工作くらいなら協力してもいいけど」
「本当ですか、先生! じゃあ、三日前の夜は一晩中先生の家にいたことにしてください」
「うっ、東之園君、それはちょっとまずいんじゃあ……」
「別にまずくないですよー。このアリバイを叔父様に告げれば、きっと二人の仲を認めて……ふふ、うふふふふ」
「妙な笑い方をするのはやめなさい。それは、アリバイじゃなくて既成事実と言うべきだね。 ……そもそも、『遭遇』ってことは、きみが犯人じゃないわけだろう?」
「そのとおり、当たり前じゃないですか。ちょっと先生のボケにつきあっただけです。これでやっと本題に戻れますね。はあ、疲れる」
 疲れるのはこっちだ、と浅野川は思ったが口には出さなかった。
「あれは私が大学1年生の、T大祭のことでした……」
 と、萎絵は誰も聞いていないのに、話しはじめた。
「土木工学科の中庭から、死体が発見されたんです。お腹の辺りに、ナイフで文字が刻まれていました。ちょうど、数字の『1』のように見えました」
「『壹(いち)』の字が書いてあったって? その上には『密室』と書いてなかったかい?」
「そう、それで被害者は首を切断されて殺されていたんです……って、違いますよ先生! それは別の作家です! 結局、先生の方がボケてるんじゃないですか」
「いや、これはボケてるわけではなくて、高度に知的な会話を楽しもうと……」
「知的というなら、せめてこれくらいの会話はしてください」
 そう言うと、萎絵は突然一人芝居をはじめた。

「……ちょうど、数字の『1』のように見えました」
「なるほど、犯人がわざわざそれを書いた以上、何か意味があるはずだね」
「やっぱり、そう思います? で、先生、数字の『1』は何?」
「うーん、工場の煙突、かな?」
「さすが先生! そのとおり、被害者は煙突から転落死したんです」
「すると、二人目の被害者には数字の『2』が書いてあって、アヒルの池で溺死したのかい?」
「すごーい、先生、どうしてわかったんですか?」

 どこが知的な会話なんだ、と浅野川は思ったが、黙って見ていることにした。

「いやなに、これも、君への愛があればこそ、だよ」
「うれしい。やっとその言葉を言ってくださったのね」
「愛してるよ、東之園君」
「いや。萎絵って呼んで」
「……萎絵」

 浅野川はそっとドアを開けて外に出た。萎絵はまったく気付かず、一人芝居を続けている。
 ゆっくりと廊下を歩きながら、浅野川は考えていた。……やはり、何か妙なものに取り憑かれているのかもしれない。ここはひとつ、京極堂にでも憑き物落としをしてもらうか。いや、あれも別の作家だったな。しかし、京極堂って、いま何才になるんだろう……。


(この物語はフィクションであり以下略)
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