私的自滅ジャック

阿東

「先生、私、殺人事件に遭遇したことがあるんですよ」
 今日の萎絵の第一声が、これであった。
 某県立T大学工学部研究棟にある一室に、そのスペースの持ち主である浅野川が落としたマグカップが割れる音が響いた。浅野川の足元には、欠けたカップとコーヒーが散乱している。それを踏まないように注意しながら、萎絵に近付いた。
「殺人……事件? 東之園君が? ああ、……何があったか聞かないけどね、他人の人生奪うようなことをしちゃいけ」
「違います! 私じゃありません。「遭遇」って言ったじゃないですか。私が殺人を犯したのなら、「遭遇」なんて使いませんよっ」
「そう……だったかな。いや、最近もの忘れがはげしくて」
 先生ったら私のこと、そんな目で見ていたんですね。ひどいわ、と怨みがましく、しかもはっきりと聞こえるようにつぶやく萎絵を無視して、ふきんを手にとる。過去何回もコーヒーを拭いたおかげで、そのふきんは黒ずんでいた。
「あれは私が大学1年生の、T大祭のことでした……」
 と、萎絵は誰も聞いていないのに、話しはじめた。
「土木工学科の材料実験室から、死体が発見されたんです。お腹の辺りに、ナイフで文字が刻まれていました。横から見ると、ちょうど「I」のような感じでした」
「ギリシャ数字の1かな? 線の両端に横線が引いてあるやつだろう?」
「そうです。死因は……何だったかな。そのナイフでの、出血多量死だったと思いますけど……」
「思うって……、死因も覚えてないのかい?」
「いいんですよ、別に」
 そんなものなのか? 浅野川は思うが、声には出さない。
「で、さらに驚いたことに、翌日、また死体が見つかったんです。今度は水理学実験室。先生も知ってると思いますけど、材料実験室とは、物置きの中でつながっているんですよね。どちらかの鍵を持っていれば、両方に入れるんです」
 さらに言うなら天井からも侵入出来るが、浅野川はそこまで言及しなかった。
「その水理学実験室の、溝にはまっていたんです。初めは、事故じゃないかとも言われていたんですが……」
「また、文字が書かれていたんだね」
「ええ。今度も横に見て、「Z」でしたね」
「「Z」? じゃあ、先の「I」はアルファベットかもしれないんだね?」
「まあ、そうですね。……そして事件は、これで終わりではなかったんです。その事件があったさらに3日後、また材料実験室で死体が発見されたんです」
「警察が、見張ってるんじゃないのかい?」
「さあ、気付きませんでしたけど……。まあとにかく、その死体にも文字がかかれていたんですよ」
「次は「M」かな」
「……えー……とですね、「A」です。シャレじゃないですよ」
「解ってる。それは僕が「あつい密室〜」でも言ったよ。そしたら、また死体が発見されて、その文字は「M」になってるんだろう? あ、もしくは「Σ」かな」
「正解……。「Σ」です。先生、読めちゃいました?」
「解ったよ。その4人目に発見された人は、実は3番目に殺されたんだろう?」
 それを聞いた萎絵は、心底嬉しそうな表情をした。萎絵のその顔をみた浅野川は、自分の解答が違っている事を察した。
「ち」
「ああ、いやいや、東之園君、何も言わなくて良いよ。えー……と……、ああ、そうか」
「何がです?」
「今度こそ、解ったよ。……これ、東之園君の創作だろう?」
「……解りました?」
「ああ、大体、この大学で起こった事件なら、僕が知らないってのは不自然だし、「H.NAE」なんて署名が付いていればね。……それにしてもこれ、ちょっと無理がないかな?」


(この物語はフィクションであり以下略)
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