「最近、登録した覚えのない名前でうちのUNIXに侵入したやつがいるんだよ。
一応うちの講座のアカウントネームのルールに沿って動物の名前が使われてい
たので、何げなく見過ごして発見が遅れてなぁ。」
美波が彼の講座で起きたUNIXマシンへの侵入事件についてしゃべり始める。
「何か悪さをされたんじゃないか、と真っ青になってうちのrootに調べても
らったんだが、どうやら、ユーザディレクトリのかなり深い階層に専用のディ
レクトリを切っていて、そこ以外には悪さをしていない。まったく、何でそん
なことをしたんだか…。それで、そこにはいくつかテキストファイルが残って
いたんだ。」
ちょっと間を置いて続ける。
「…お前と、東之園さんのことが書いてあったんだな、これが。疑ってるわけ
じゃないんだが、何か心当たりはないか。」
テキストファイルの内容をプリントアウトした紙を投げてよこす。
浅野川はゆっくりと目を走らせた。
そこに書いてあった事実を知っているものは浅野川と萎絵だけのはずである。
浅野川に心当たりがない以上、このいたずらは萎絵のせいに違いない。
…何でそんなことをしたのかは彼にはわからなかったし、彼女にそんなことが
できたとも思えなかったのだが。
「へぇ、そんなことがあったんですか。あ、先生、コーヒー淹れますね。」
翌日、いつものように浅野川の研究室を訪れた萎絵に、美波の講座のマシンへの
侵入事件について話を向けてみたものの、彼女はいつもとまったく変わった様子
がない。
「私、御弁当も食べたいので、電子レンジ使っていいかしら」
「で、これがそのファイルの中身なんだけどね」
浅野川は彼女の問いには直接答えずに、昨日もらってきた紙の束を萎絵に渡した。
「ひどいわ、これって私と先生の間だけの秘密だったはずなのに。」
読み進むうち、萎絵の顔色が変わり、あっと言う間に彼女の目に涙が溜まる。
(べつにふたりの秘密にした覚えはないんだけどな…。)
彼女の言葉に困惑を覚えつつも、その様子から浅野川は彼女がうそを言っていない
ことを確信した。
(だとすると一体だれがこんなことを。)
(それに、そいつはなぜ我々のことをこんなに知っているんだ?)
…なにもかもが不明だった。
突然、天井の蛍光灯が消えた。
コーヒーメーカーと電子レンジの同時使用でブレーカーが落ちたらしい。
浅野川の頭脳に閃光が走った。暗さによる錯覚ではない。
浅野川の中の一番勘の鋭い人格が浮上する。彼は「危険だ、危険だ」と
どなりまくりながら頭の中を駆け回る。
(そんなはずは…しかし、それが一番妥当な結論なのか?)
「今日は何日だったっけ?」
一番勘の鋭い人格が無意識に口にしてしまった声に萎絵が答える。
「3月の…25日ですけど。それがどうかしましたか?先生。」
その声はひどく遠くから聞こえたような気がし、浅野川はそのまま意識を失った。
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同時刻、T県立大学工学部研究棟の一室。
(さて、と。全部ファイルも消し終わったし、これで心置きなく卒業できるわね。)
takaの名前でログインするのもこれで最後。
最後に使ったのが研究用のログインネームではなくて、先生には黙って作って
もらった趣味専用のログインネームだったのもいかにも彼女らしいと言えなく
もない。
(でも、私のことだからプロバイダ契約してホームページを開いちゃうわね…。
きっと。)
それまでちょっとの間だけ封印。
鷹田はコートの上からいくつかの物語が封じ込まれたフロッピーをそっ
と確かめると、見慣れた研究室を後にした。