第111回   先週の研修 1997.1.29


 うちの会社の研修センタは京都市内にある。そこで研修を受けたのは、先週のことだった。

 8時40分に、私は研修センタに到着した。普段フレックスタイムを使用している者にとってはつらい時間である。研修室には、すでに二十人ばかりが来ていて雑談をしている。今日の研修は『技術開発のマネジメント』というものだった。しばらく待つうちに9時の鐘が鳴り、講師が入ってきた。
 講師は、白髪混じりの初老の男性だった。定年間近、という感じで、なんだか元気がないようだ。講師はまず、自己紹介をした。近藤和夫というらしい。講師は、ゆっくりと話し出した。
「‥‥実はですね、私、昨日辞令を受け取りまして、転勤することになったんですよ。異動先は東京です。来月の十日には、東京に行かねばなりません。まったく、皆さん、どう思います? 私ももう、五十四ですよ。何の因果でこの年になって、住み慣れた京都を離れて東京なんかに行かなければならないんでしょうか‥‥」
 なるほど、十日異動、五十三過ぎ、ということか。しかし、愚痴はいいから早く研修を始めてほしいものだ。

「私は、絵が趣味なんです。京都のあちこちを回って、寺や神社の絵を描くのが好きでねえ。‥‥でも、それももう描けなくなってしまうんです。私の絵は、自分で言うのも何ですが、けっこう大したもんです。あ、描いた絵を持ってきているので、お見せしましょう」
 そう言うと講師は、カバンから絵を取り出した。自画持参、というやつだ。
 油絵だ。金閣寺が描かれている。確かに、そこそこうまい絵である。しかし、端の方に書いてあるサインはものすごくへたくそだった。字がずさん、である。

 なかなか本題に入らない。みんなもあきらめたらしく、黙って講師の話を聞いているようだ。
 結局、午前中は講師の愚痴で終わってしまった。

 そして、午後の研修が始まる。今度こそ本題に入るか、と思ったが、甘かったようだ。
「‥‥東京に行ったらね、狛江という所に住むことになります。でも、狛江ってどこですか? 東京都? それとも神奈川県ですか? 関東の地理にはうといんですよね。でもまあ、今さら泣き言をいっても始まりません。住めば都、といいますからね。狛江も、住んでみればきっといいところでしょう」
 なるほど、狛江がパラダイス、ということか。

 結局、この研修は講師の愚痴だけで終わってしまった。
 しかし、研修の講師という立場にありながら、延々と自分の話だけを続ける、というのは、やはり問題があるだろう。そう、講師・近藤、というやつだ。


第110回へ / 第111回 / 第112回へ

 目次へ戻る