第174回   過去からのメール  1998.3.15




「ごめんなさい、他に好きな人ができたの」
 それが眞弓の言葉だった。

 前回、「私の人生にはまだ春は来ない」と書いたが、実を言うと高校時代に春が来たことがあった。同級生とつきあっていたのだが、それが眞弓である。
 眞弓とつきあっていたのは、二年に満たなかっただろう。高校時代の話だ。そして、卒業直後に私と眞弓は別れた。別れを切り出したのは眞弓の方だったので、前回書いた「ふられ続けて三十年」という言葉もあながち嘘ではなかったわけだが。
 以来十数年、眞弓とは一度も会っていないが、高校時代の友人からたまに消息を聞くことがあった。結婚したという話、離婚して今は実家に戻っているという話。そんな噂が時折耳に入っては来るものの、もはや眞弓のことはほとんど思い出すこともなかったのだが……。
 その眞弓からメールが来たのが、一月ほど前のことだ。

 インターネットはつい最近始めたばかりだ、ということ。「日記猿人」のリストの中に聞き覚えのある名前を見つけて「補陀落通信」を読んでみた、ということ。読んでいくうちにこれは私の知っている「たみお」だと確信を持ったこと(そう、当時、眞弓は私のことをたみおと呼んでいた)。そんなことがメールには書いてあった。
 二、三日後に、私は返事を出した。どう書こうかしばらく悩んでいたのだが、彼女の方が「高校時代の友人」というスタンスで書いていたので、私もそれを踏襲した。読んでくれたことのお礼、ちょっとした近況報告、その程度である。
 それから一週間ほどして眞弓から再びメールが届き、以降私たちは、ほとんど毎日のようにメールを交換し始めた。
 もっとも、眞弓からのメールには自分自身についての具体的な記述はほとんどなかった。結婚と離婚のことについてもほんの一言触れられていただけだ。あとは、私のページについての感想(昔の作品について、が多く、最新作にはなぜか言及していない)と、散文詩のような抽象的な言葉。しかし、それらのメールを読むのは私にとっては楽しみだった。
 もしかすると……私はまだ、心の底では眞弓のことを好きなのかもしれない。メールが来るまでほとんど思い出すことはなかったとはいえ、「補陀落通信」のいくつかの回でヒロインの名前を無意識に「眞弓」にしてしまったのは、ゆえないことではあるまい。精神分析医なら、どのように判断するだろうか?

 そしてついに私は、「直接会いたい」とメールを出した。
 眞弓からの返事は、なかなか来なかった。
 失敗した、と私は思った。眞弓の方には、そんな気はなかったのかもしれない。この一言のせいで、現在の「メールフレンド」という関係まで壊してしまったのだろうか。悄然と待つことさらに数日、眞弓から短い返事が来た。会います、と。
 私はすかさず返事を書き、次週の日曜日、すなわち今日会うことを約束した。場所は「地球儀」。高校時代、眞弓とよく行ったなじみの喫茶店である。店の真ん中に直径1メートル近い大きな地球儀が置いてある、静かで雰囲気のいい店だ。もしかするとすでになくなっているかもしれないが、そのときは「地球儀」のあった場所で、と約束した。

 ところが一昨日、私は高校時代の友人から電話で信じがたい話を聞いた。眞弓はつい最近、交通事故で他界した、というのだ。何度も聞き返したが、彼の友人が実際に葬儀に参列したので確かだと言う。話によると、眞弓が死んだのは2月11日。私は電話を切ると、あわてて眞弓からのメールの日付を確認した。
 1通目のメールが来たのが2月9日。2通目は2月18日。3通目は2月21日。それ以降は、ほとんど毎日来ている。メールの配信経路も確認してみたが、すべて同じプロバイダから発信されている。特に不審な点はない。
 これは、本当に眞弓からのメールなのだろうか? 霊界からのメール、などという話を信じるわけではないが、ひょっとすると……。
 ……とにかく、眞弓と会えば(会えれば、の話だが)はっきりするだろう。私は不安と期待が入り交じった複雑な心境で3月15日を待った。

 そして今日。私は約束の三十分前に「地球儀」にいた。幸い、店も口ひげを生やしたマスターも当時のままである。マスターは私には気付いていないようだったが、今は名前を明かして想い出話をする心境ではない。ショートカットのウエイトレスに(さすがにこのウエイトレスは当時のままではなかった)コーヒーを注文した後、ぼんやりと煙草をくゆらせていた。
 ドアの開く音が、私を現実に引き戻した。見ると、一人の女性が入ってくるところだ。卵形の顔に、黒目がちの大きな瞳、そして小さな唇。髪型は変わっていたが、確かに眞弓の面影があった。本当に眞弓なのか? 本当に生きているのか? その女性は店内を見回すと、呆然としている私にすぐに気づき、緊張した面もちでゆっくりと近づいて来て、私に声をかけた。
「たみお……さん?」
「眞弓……」
 私は、その女性の顔を見ながらつぶやいた。その女性はちょっと困ったような顔をすると、頭を下げ、私に言った。
「ごめんなさい。眞弓じゃないんです。私は美幸……眞弓の妹です」
 美幸。私はかすかな記憶を辿る。そうだ、眞弓には妹がいた。私も、一度会ったことがあるはずだ。
「では、眞弓はやはり、もうすでに死んで……」
 美幸は哀しげに微笑んだ。
「知ってたんですね。ええ、姉は先月の11日に亡くなりました」
「すると、今まで眞弓の代わりにメールを書いていたのは、あなたですか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるんですが……」
 美幸は事情を語ってくれた。

 最初に来たメールは、確かに眞弓が書き、眞弓が出したものだった。そして眞弓は、その直後に逝ってしまった。
 眞弓の葬儀が済み、落ちついた頃に、美幸は眞弓のパソコンのファイルを整理していたそうだ。そして、メールソフトの中に未送信のメールが十数通もあることに気付いた。すべて、私あてのメールである。セーブされた日付からすると、眞弓は最初のメールを出す数日前から私あてのメールを何通も書き、推敲し、どれを出そうか迷い……そして結局、あのメールを送信したのだ。
 美幸は、涙を浮かべながらそれらの未送信メールを読んだらしい。そのためか、ついメールソフトの操作を間違え、そのうちの1通を私に送信してしまったのだ。そして、そのメールに対して、私からの返信が来た。
 美幸は悩んだだろう。しかし結局、自分の名前は出さずに再び眞弓の書いたメールを出すことにした。つじつまが合わないところは、他の未送信メールから文章を持ってきて、切り張りなどしながら。
 はじめは、こうしているとまだ姉がすぐ近くにいるような気がしたんです。だけど、だんだん私もたみおさんのメールを読めるのが嬉しくなってきて。だから、姉が死んだ、ということをたみおさんに告げる勇気がなかったのです。そう美幸は語った。
 そして、会います、という短いメール。それが唯一、美幸が自分の言葉で書いたメールだった。

 私は美幸に頼み、眞弓の実家に連れていってもらった。眞弓の遺影に手を合わせる。かすかに微笑んだその顔は高校時代と同じ清楚な美しさを保っていた。
 そして、眞弓に負けず美しい女性が今、隣にいて私の横顔を見つめていた。


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