第181回 忘却の彼方へ 1998.5.11
幼いころから記憶の正確さには自信があった。もちろん、私の記憶は正確なだけではなく、美しくもあるのだ。記憶正しく美しく、というやつである。
……というネタは、前に使っただろうか? どうも記憶が定かでない。そう、最近、物忘れが多くて困るのだ。
しかも、忘れてはいけない大切なことに限って忘れてしまう。どうでもいいようなことはしっかり覚えているというのに。
しっかり覚えているのは、たとえば年号の暗記方法だ。
なんときれいな平安京。いい国つくろう室町幕府。いくよ一発真珠湾。一休救急人類滅亡。こんなことを覚えていても何の役にもたたないというのに、なぜか忘れない。
元素記号の覚え方、なんてのもあった。
水兵リープ僕の船、磁場曲がるシップス・エルドリッジか。スコッチばかり消滅し、どうせ見えんがフィラデルフィアには明日帰ろうか。
歴代天皇名の暗記方法というのもあった。
神武は綏靖の父なり。綏靖、安寧を産み、安寧、懿徳を産み、懿徳、孝昭を産み、孝昭、孝安を産み、孝安、孝霊を産み、孝霊、孝元を産み、孝元、開化を産めり。すべて実在にして決して欠史ではなし。
しかし、この暗記方法、かえって覚えにくいのが欠点だ。
京都の通りの名前の覚え方というのもある。
丸八真綿に年老いて、姉さん別格タコ踊り。
さらに、円周率の暗記にも挑戦したことがある。しかし、これはさすがに難しかった。惜しいところまでいったのだが、最後の100桁がどうしても覚えきれなかったのだ。残念である。
あと、忘れたいのに忘れられない、ということもある。
中学一年のころ、友人が手招きして私を呼び寄せ、耳元でこうささやいた。
「あのな、クリスティーの『オリエント急行の殺人』の犯人は、○○だぜ」
もちろん、○○には名前が入るのだが、伏せ字にしておく。とにかく、それ以来この名前は私の脳裏に焼き付いて離れないのだ。これを忘れない限り、私は『オリエント急行の殺人』を読むことはできない。しかし、忘れようとしても忘れられるものではない。この本さえ読めば、古今東西の推理小説はすべて読破したことになるのだが。
ええと、何の話をしていたんだっけ? ……と、今書いたことを読み返してみる。そうそう、どうでもいいようなことはしっかりと覚えている、という例を挙げていたのだった。
このように、役に立たないことについての記憶は完璧なのだが、大切なことをすぐ忘れてしまうのだ。
どんなことを忘れてしまうのかといえば、ええと、どんなことだっけ? ……そうそう、日常生活に支障をきたすようなことだ。
目覚まし時計をセットするのを忘れて寝てしまう。歯磨きが切れているのに買い忘れる。トイレに入ってパンツを降ろすのを忘れる。財布を忘れる。靴をはくのを忘れて裸足で駆けていく。駅までの道を忘れる。こんなことは日常茶飯事である。以前は妖怪の仕業にしたような気もするが、それも忘れてしまった。
前に一度、おでこの上に載せたのを忘れて必死でコンタクトレンズを探し回っていたことがある。これにはさすがに我ながら呆れた。また、拾った携帯電話を駅員に渡すのを忘れてしまったのも記憶に新しい。
さらに、東京へ行くのに新幹線を乗り間違えて博多まで行ってしまったことがある。せめて広島くらいで気付けばまだなんとかなったのに。仕方がないので福岡ドームで明太子スパゲティーを食べて帰ってきた。なあに、どうせ東京ドームでてんぷらそばを食べるつもりだったのだから大して違いはない。と自分をなぐさめた。
この程度だったら、まだ笑い話ですむ。問題なのは、結婚記念日を忘れてしまったことだ。手帳を見ても書いてないし、それとなく妻に聞いてみるしかないのか。
と思ったのだが、その妻の姿が見えない。そういえば、最近妻の姿を見ていないようだ。いつから見ていないのか忘れてしまったが。ええと……はっ、まずい! 妻の顔も思い出せない。どうしてこんなことを忘れてしまうのか。まったく、情けない。
写真でもないかと家の中を探し回ったが、どうもおかしい。妻の気配が、まったく感じられないのだ。家具もインテリアも、まるでずっと一人暮らしをしていたかのようだ。これは、まさか……妻は、忘れっぽい私に愛想を尽かして出ていってしまったのか? 大変だ。すぐに謝って、帰ってきてもらわなければ。
ひょっとして、このページを読んでいるかもしれないな。よし、ここで呼びかけておこう。ええと……はっ、さらにまずい! 妻の名前を忘れてしまった! 確か名前は……と、いいかげんな記憶に頼って書くわけにもいかない。間違えて昔つきあっていた女性の名前を書いたりしたら問題である。何しろ、昔つきあっていた女性といえば月の数ほどいるからな。
とにかく、妻よ! すべて私が悪いのです。だから帰ってきてください。しくしくしく。
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