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紅蘭るい警部補の宣言があったとき、
弥生夫人の前でお茶の用意をしていたお手伝いさんは、
不意を衝かれたためか、手にしていたティーカップを取り落としてしまった。
彼女は慌てて片づけようとするが、
「そのままで良い。さがっていなさい」
と弥生夫人に言われ、夫人の左後方にさがった。
彼女はハンカチを取り出し、
額の汗を拭き、左ポケットにしまった。
同じ頃、自分の席に着こうと、
弥生夫人の後ろを通りかけていた、
弥生夫人にとっては義理の弟の夫人も、
思わぬことに立ち尽くしていたが、冷静さを取り戻し、
ようやく自分の席に着いた。
ここは、この地方有数のある資産家の豪邸の食堂である。
そこにある大テーブルのまわりに着席しているのは、
3人だけ。
残りの3人、つまり、紅蘭るい警部補、先程のお手伝いさん、
そして私は、席に着いてはいない。
先の宣言からも分かるように、
ここで起こった事件に対する謎解きを、事件の関係者全員を集めて、
紅蘭るい警部補が始めたのだ。
申し遅れたが、私の名前は、冴時有鴨(さえどきゆうおう)。
まだまだ駆け出しの刑事で、紅蘭るい警部補の部下である。
兄の有造も警察関係の職に就いている。
そろそろ昇進するらしい。
先輩である紅蘭るい警部補は、美声の持ち主だ。
しかしその他のことについては謎に包まれている。
他の同僚に聞いてもみても、それは同様らしい。
彼女は美人だという噂である。
お前は直接顔を合わせているのに、何故「噂」なのだと言うなかれ。
どういう訳か、るい先輩の御尊顔を拝もうとすると、
私の目は涙目になってしまって、はっきり顔を見られた試しがないのだ。
彼女の名のせいだろうか?
私にとっては、玉葱のような人である。
しかし、これだけは言っておこう。
彼女はN崎県警きっての敏腕刑事だということを。
さて、事件の方に話を移そう。
3月のとある日、この豪邸で殺人事件が発生した。
ここの主人が殺されたのだ。
3月だというのに、集中豪雨に襲われた晩のことである。
主人の名前は、荻原剛造。
悪性のガンを患っており、
あと数ヶ月もてば良いだろうと医者に言われていたそうだが、
病床に伏せる彼は刺殺された。
莫大な資産を有した彼の遺産は、未亡人となった弥生夫人と、
剛造の弟の修造が相続することになる。
未亡人となったのだから、
「夫人」と表現するのは適当でないかも知れないが、
ここでは「夫人」という表現で統一しておく。
弥生夫人は姓を旧姓に戻すことなく、
夫の残していった会社等の運営に精を出すつもりでいるようだ。
今はまだ喪に服しているが。
「説明していただきましょうか」
と弥生夫人が言う。
「勿論です。この事件は、ある事を除いて考えれば非常に簡単でした。
それではまず、犯人の特徴から。
犯人は左利きです。これは鑑識の結果、
殺害時の犯人と剛造氏の位置関係と、
剛造氏を刺したナイフの角度とから、そのように推定されます」
犯人は剛造氏を掛け布団の上からのしかかってナイフで刺した。
そこでその時の犯人の位置が布団に残っていたのだ。
これと、刺された角度を考え合わせて、
犯人は左利きであると鑑識は推定したようだ。
「左利きであると見せかけたということだってあるのでしょう?」
と弥生夫人は毅然として言う。
「おっしゃる通りです。その可能性は否定できません」
と、るい先輩は答える。
「次に、アリバイの問題があります。あの夜、
犯行時にアリバイを立証できなかったのは、弥生さんと修造氏だけです」
そうなのである。
身内の証言など証拠能力としては欠けるかも知れないが、
取り敢えずこの二人以外のアリバイは成立している。
剛造氏の死亡推定時刻には、みんな一緒にリビングにいたと言うのだ。
二人だけはそのときその場から抜けていた時間帯があるということである。
しかし、修造氏は右利きであることが判明している。
今見える範囲での傍証は、彼が左腕に腕時計をしていることか。
「犯人がアリバイ工作をした可能性もあるでしょう?
それに外部の者の犯行だっていうことも、
可能性がない訳ではないのでしょう?」
と弥生夫人が反論する。
「おっしゃる通りです。その可能性も否定できません」
と、るい先輩が応じる。
私は外部の者の犯行の可能性はないと信じている。
あれだけの集中豪雨にみまわれた晩の犯行である。
痕跡を残さずに行うことは不可能だろう。
内部に共犯者がいれば別かも知れないが。
アリバイ工作も無理ではなかろうか?
時刻表を使ったトリックが出来る訳でもなし。
出来るとすれば、
その場にいる人々の時計を全部何らかの形で外させ、
唯一見られる時計を用意し、
その時計の時刻を狂わしておくとか、
そんな策を用いなければならないだろう。
あの晩にそんなことがあったのだろうか?
弥生夫人の右腕にはめられた腕時計を眺めながら、
私はそんなことを考えていた。
「何をぼんやりしているのよ?冴時」
と、るい先輩は私の方を見て言う。
「な、何でもありません」
と、私はちょっとうろたえた。
るい先輩の説明はまた続けられる。
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