第31回   救命艇状況 1996.10.17


 ちょっと仕事関係のトラブルがありまして、まあ、私自身のトラブルでないところがまだ救いなのですが、かなり「危機的状況」のようです。うーむ、詳しく書けないのが残念(こらこら)。
 で、その担当者から色々と話を聞いているうちに、「救命艇状況」のことを思い出しました。だから、今日のネタはこれ。

 利己主義、と、利他主義、という言葉があるが、おそらく、大多数の人間は自分をまず大切にし、自分の利益を第一に考える、という意味では利己主義を原則として生きているのだろう。
 しかし、世の中には、「小さな親切」であふれている。なぜかというと、自分の生命や財産を失う危険もなく、自分の利益が著しくそこなわれる恐れのないような状況下では、人は喜んで利他的な態度を取るからである。この場合「利他的な行為」とは、後から来る人のためにちょっとドアを押さえておくようなマナーから各種の少額の募金まで、本当にささやかなものである。
 では、もっと極端な状況を考えてみたらどうか。利他的行為が、即、自分の生命の危険につながるような‥‥。
 今日取り上げる「救命艇状況」とは、生態学者ガレット・ハーディンが考案した、思考実験のひとつである。

 船が沈没して、大勢の人が海に投げ出され、助けを求めているが、救命艇が小さくてごく一部の人しか収容することができない。今、その救命艇には定員以下の人数しか乗っていず、周囲には助けを求めている人が大勢いる。さて、どうすればよいか。
 考えられる選択肢は、以下の4つである。
 A.ヒューマニズムの立場から、助けを求める人々を全員救命艇に乗せるようにつとめる。
 B.定員一杯までは乗せる。
 C.人々の良心に訴える。すなわち、生き延びるに値する人を助けるために、そうでない人は譲って犠牲になってもらうように、と訴える。
 D.これ以上一人も乗せない。

 まず、Aであるが、これを実行すれば救命艇が転覆して、結局全員が溺れて死ぬことになる。キリスト教的博愛主義であれ、人権平等論であれ、そのような立場に立ってAを実行することはどう考えても賢明な解決ではないだろう。
 まあ、「誰かが助かるよりはいっそみんなで死んだ方がよい」という「超合理主義」的解決もあり、そして日本人は結構それが好きなようなので注意が必要である。

 次にB。これは一見合理的な解決に見えるが、ハーディンによれば安全因子を無視したやり方であり、結局Aと同じ結果に終わると言う。
しかもこの場合にやっかいなのは、定員一杯になるまで、誰が誰をどのように選抜して乗せるか、という問題である。この場で「真に生き残るのに値する人間は‥‥」などと議論してる余裕はない。老人よりも子供を、また妊娠可能な年齢の女性を、というのが「種族の生き残りの可能性を最大ならしめる原則」ではあるが、これに従って整然と選抜と救助が行われるとも思えない。
 おそらくは「早い者勝ち」ということになるだろうが、すでに乗り込んでいる人々は、定員を超えて乗船しようとする人々を阻止するためには射殺することも辞さない、という覚悟が必要であろう。

 そして、ハーディンによれば、もっとも愚劣なのはCである。もしこれが文字どおりに実行されたとすれば、良心的な人々が救命艇に乗ることをあきらめて死んでいく一方で、良心など持ち合わせていない人間だけが生き残ることになる。
 言ってみれば、「良心的な人=生き延びるに値する人」は見事に淘汰されてしまうわけで、このような危機的状況においては利他主義はまったく通用しないのである。それどころか逆に、利他主義による解決は利他主義そのものを消滅させる結果になる。

 結局、ハーディンが「これしかない」という解決はDである。こうすれば、現に乗り込んでいる者だけでも生き延びる可能性はもっとも大きくなる。このDを採る決断が出来ないでいると、混乱のうちに救命艇が転覆して全員が死ぬという最悪のケースが起きる危険はますます大きくなる。
 この解決策の特徴は、非常事態では、自分だけは助かりたい、という利己主義の原則にもとづいて、早い者勝ち、強い者勝ちの競争をすることを認め、ある段階以後は、すでに乗り込んだ人たちの集団的利己主義、すなわち、「自分たちだけが確実に助かるためにはこれ以上は乗せない」という態度にまかせている点である。

 さて、仕事関係のトラブルの方であるが、これは「人」ではなく「物」を選別すればよいので、はるかに気が楽だろう。しかし、決断が下せないでいるとやはり「救命艇が転覆」という事態に‥‥。どうなることやら。


第30回へ / 第31回 / 第32回へ

 目次へ戻る