「新展開などど言っておきながら、何も変わってないじゃないか」と見破った方、慧眼です(←誰でもわかるって)。まあ、「新展開と言いつつ元のまま」というのは、『がんばれ!まりちゃん』(某大麻雀オリジナル掲載)以来の私の常套手段なのでお許しを。
というわけで、今日は‥‥うーむ、なんだか生物学周辺のうんちくが続くなあ。
ダーウィンの進化論が登場する以前、西欧において、人種のランク付けを正当化する流儀には二通りのものがあった。
そのうちのひとつでは、すべての人々は聖書に示されたアダムとイブの創造に結びつけられている、とされている。これは人種単起源論と呼ばれ、人類はひとつの源から生まれた、と考えるものだ。人間はエデンの完璧さから退化したものであり、退化の度合いは人種によって異なる。白人では小さく、黒人では大きく、黄色人種がその中間、というわけである。この「退化」の原因としては、気候の差と考えるのがポピュラーだった。
退化論者たちは、退化によって生じた人種の現在の欠陥を改善しうるかどうかに関しては異なった意見を持っていた。ある人は、その差異は気候の影響によって徐々に発達したのだが今では固定されており、元に戻すことはできないと主張した。また他の人は、徐々にその差が発達したのであれば適当な環境下におけば元に戻ると論じた。ニュージャージー・カレッジのサミュエル・スタンホープ・スミスは、「白色人種の気質に適した気候では黒人はすぐに白くなるだろう」と期待したが、他の退化論者たちは、人類の歴史に何らかのインパクトを与えるほど急速には改善されないだろうと感じていた。
もうひとつの論では、聖書を寓話として捨て去り、それぞれの人種は生物学的に別個に創造された種であり、別々のアダムとイブの子孫であると主張している。黒人は人間(=白人)とは違う別の生物なのだから、「人間の平等性」の枠外の存在だと言う。これが「人種多起源論」である。
聖書を簡単に見捨てるべきでない、という理由からであろうか、退化論の方が人気があった。さらに、すべての人種間で生殖が可能だということは、ビュフォンの「同一種内のものは互いに交雑しうるが、他種のものとは交雑することはできない」という基準に照らすと、人類がひとつの種であることを保証していると考えられた。
ビュフォンは18世紀フランスのもっとも偉大な人物であり、強力な奴隷制廃止論者であった。また、適切な環境の下におけば劣等人種を改良することができると考えた代表的人物でもあった。その彼にしてから、次のような白人の標準に関する固有の価値観は決して疑わなかったのだ。
「もっとも温和な気候は北緯40度から50度の間に見られる。そこではもっとも堂々とした美しい人間が生まれる。この気候からこそ人類の本来の皮膚の色や、さまざまな程度の美についてのイデアが引き出されるべきである」
‥‥もちろん、これらはすべて、今はもう昔の物語である。現在では、人類は単一種であり人種間に優劣の差がないことは生物学的に証明されているし、政治的にも(一応は)承認されている。表立って優劣を論じようという者は多くはないだろう。
しかし、「人種の平等」というものは、幸運な偶然の結果なのだ。人類が白人や黒人などの人種に分化したのはせいぜい数十万年前のことであり、本質的な差異が進化するのに十分な時間ではない。しかし、数百万年もあれば、多くの種において、地理的な区分は明瞭で根の深いものとなる。人類がそのような時間尺度で進化してきたならば、もっと前に人種が生じ、蓄積された差異はずっと膨大になっていたかもしれない。しかし、たまたまそうはならなかった。人種の平等は歴史上の偶然的な事実にすぎない。
もし、そうなっていたら、どのようなことが起きていただろう? 互いに交雑できない幾種類かの「人類」は、それでも共存していけただろうか? それともやはり、「我々以外は人類ではない」などと言って、動物園を作ってみたり、虐殺に手を染めることになっただろうか?
ん? これと似たようなオチは、前にも書いたような気がするが‥‥。まあいいか、「新展開」だから(←そういうことか、こら)。