第52回   やさしさの証明 1996.11.9


 人間の歴史。
 それは、戦争、欲望、憎悪、嫉妬、など、ありとあらゆる悪徳から構成されている。
 歴史の本をひもとけば明らかだろう。そこに書かれているのは、ほとんどが「争いの歴史」である。
 人間は、生まれつき、攻撃的で利己的で貪欲な生き物なのだ。それが、人間の本性なのだ。

 いや、ちょっと待って欲しい。
 本当にそうなのだろうか? 私やあなたの経験に照らして、それが本当だと言えるだろうか?

 私たちの暮らしている都市の路上や家庭や職場で、日頃私たちが目にしていることを思い出して欲しい。親切や思いやりに裏付けられた、意味のないちょっとした行動を何千回となく目にしているはずだ。出入口で人を先に通すために横にどいたり、子供にほほえみかけたり、知り合いや、時には見ず知らずの人と挨拶を交わしたりしていないだろうか。
 毎日目にする光景で、人間の嫌な面を見かけることがあるだろうか。いつもどこかで親が子供をひっぱたいていたり、高校生がホームレスを襲撃していたりするだろうか。
 もちろん、私も大阪で生まれ育った人間である。都市の不愉快さや危険は十分に承知している。だから、ここで言っているのは、あくまでも統計的な話だ。
 人間の頭にとって、確率的なことについて正しく考えることほど苦手なことはない。多くの人は、毎日の生活は不愉快な出来事の繰り返しだ、という印象を持っている。あるいは、他人との出会いの半分以上は緊張だらけか攻撃的だ、とも。
 しかし、そのことについて、少しだけ真面目に考えて欲しい。そんなに頻繁に嫌な想いをしているという主張は、可能性としてありえない。他人に何か言うたびに二回に一回は鼻にパンチを喰らっているようなものなら、社会はたちまちのうちに無法状態と化すだろう。
 そう、違うのだ。他人との出会いのほとんどは、少なくとも中立的で、大抵は楽しい出会いなのだ。

 ならばなぜ、人間はとても攻撃的で、しかもそれは生まれつきのことだという印象を持っている人が多いのだろう。
 思うに、その答は、引き起こされる結果の非対称性にある。これが、人間という存在の実に悲劇的な面である。残念なことに、一回の暴力は一万回の親切を帳消しにする。そして私たちは、結果と頻度を混同することで、攻撃よりも親切の方が圧倒的に多いという事実を簡単に忘れてしまう。親切はもろく、かくも忘れられやすいものなのに、暴力の何と強力なことか。
 親切と暴力とのこのような圧倒的かつ悲劇的な非対称性は、歴史に関与した原因を広い見地から考察すると、果てしなく拡大していく。アレクサンドリア図書館を焼き尽くす火事には、何百年にもわたって蓄えられてきた、人類の知恵の集積を一掃する力があった。たった一発の銃弾による暗殺には、何十年にも及ぶ辛抱強い外交、文化交流、何百万もの市民が関与している小さな親切を帳消しにし、二国間に誰も望まぬ戦争を起こし、何万人もの人命を奪って歴史の流れを否応なく変える力がある。

 確かに、人間の可能性の嫌な面が歴史のほとんどを作る、という事は認めよう。
 しかし、だからといって、この悲劇的な事実は、人間行動の暗黒面が人間性の本質を定義しているという事を意味しない。
 それとは逆に、私たちの日常生活のほぼあらゆる瞬間に交わされている交流の実態は、歴史を構築する稀有で破壊的な出来事とは正反対なものであるし、安定した社会とはそうでなければならないのだ。
 ありふれた状況で発揮される通常の性癖としての人間性を理解したいのなら、人間のどのような特性が歴史を作るのかを見定めた上で、それとは逆に安定をもたらす源、生活の大部分を支配している、非攻撃的な、予想できる行動を人間の本性と認定すればよい。

 歴史を変えるのは人間の暴力であるが、歴史を維持するのは人間のやさしさなのだから。


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