第51回   誰そ彼 1996.11.8


 ふと氣がつくと、彼女が目の前に立つてゐた。邊りは静寂につゝまれてゐる。
―そりやあ、あの時は本當に怖かつたわ。
 彼女が呟いた。其のうつむき勝ちの双眸は昏い翳を宿してゐる。表情ははつきりとは判らない。
 僕は訊きかへした。
―あの時つて?
―決まつてるぢやない。地震の時よ。
―ああ、さうか。さうだつたね。
 奇妙な非現實感を醸し出してゐる誰そ彼時だつた。邊りの木々も、まるで古惚けた銀版寫眞のやうに見える。色が、無い。
―梁がね、あたしの上に落ちてきたの。とても痛かつたわ。でも、聲が出なかつた。そのうちに、火が廻つて来て‥‥。
 彼女の姿が風景に溶け込んでゐる。
―御免。僕は、助けに行けなかつた。
―いゝの、仕方ないわ。其れがあたしの運命だつたのだから。
―運命。可笑しいな。君はそんな事を云ふ人ぢやなかつた。
―変わるものよ、人は。だから、貴方も、あたしの事はもう忘れて、自由になつて頂戴。
 彼女の影が薄くなつてゆく。
―自由?
―さう。あたしは、もう此處には居ないのだから。貴方を縛るものは、何もないのよ。
 彼女が、消えやうとしてゐる。
―‥‥眞弓!

 彼女が消えた。
 とたんに、周囲の風景がカラーに戻り、再び喧噪が満ちる。
 アベックの会話。子供のはしゃぐ声。車の騒音。かすかに聞こえるパチンコ屋の軍艦マーチ。
 陽はすでに西に傾いている。ごく普通の夕暮れだった。
 ‥‥そう、ここは神戸、湊川公園。真弓とよく歩いた場所だ。いつの間にか、また、ここへ来ていた。

 さっき見たのは、僕の心が作り出した幻だったのか? それとも‥‥。
 あの冬の日の朝、たしかに真弓は逝ったのだ。
 それ以来、僕はずっと後悔していた。
 なぜ、あの日、真弓のそばに居てやらなかったのか。
 前日の夕方、東へと向かう阪神高速神戸線の上から、異様に大きく血のように赤い満月を見たときに感じた胸騒ぎ。あのとき、予感に従って引き返し、強引にでも真弓を高槻の僕の家へと連れてくるべきだったのだ。
 その想いは、僕の心をさいなみ続けた。

 だが。
 真弓は、自由になれ、と言った。自分はもう、ここには居ないのだから、と。
 そう、真弓に縛られていたつもりだったが、紐の端をつかんでいたのは僕の手だったのだ。

 わかった、真弓、僕はこの手を離そう。そうすれば、僕は一歩、前へ進めるはずだ。

 そして、今日から僕は、新しい僕になる。


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