第63回   みなぎる力 1996.11.20


 昨日のネッシーのネタについては、某氏に某所で「酒飲みながら読んでたら悪酔いしそうになった」「読んでいるうちに力が抜けてきた」と言われてしまいました。あはは、なるほど確かに。私も、自分で書きながらあまりのバカバカしさに脱力感に襲われることがしばしば‥‥。
 「読者を笑わせることや泣かせることはむずかしいが、怒らせることは簡単である」と例のごとくゲーテも言っていましたが、脱力させることはさらに簡単なのかもしれません。
 とにかく、その某氏とは勢いで「今日は力のみなぎるネタを書く」と約束してしまったので、今日はそんな話です。(うーむ、しかし、こんな執筆方針でいいのか?)

 さて、「みなぎる力」ということなので、外部から力を加えなくても永遠に動き続けるという、永久機関の話をしよう。いきなり勘違いをしているような気もするが、細かいことは気にしないでほしい。
 永久機関については、古代ギリシャから現代に至るまで多くの人々が研究しているが、「これが確かに永久機関だ」と認められたものはまだない。完成した永久機関をよく調べてみると、いかさまだったり勘違いだったりするのだ。そういう、できそこないの永久機関のことを、B級機関と呼ぶ。
 ああああ、ついこんなことを書いてしまうから「力が抜ける」などと言われるのだ。とりあえず、今日はダジャレ禁止である。

 気を取り直してもう一度。
 永久機関の前に立ちはだかっているのは、エネルギー保存の法則である。この法則によれば、永久機関などできるわけがないのだ。そこで、永久機関研究者たちは、なんとかしてこの法則を否定しようとする。おおよそ、こんな論理である。
 エネルギー保存の法則は、経験則にすぎない。数学の公理と同じく、証明されたものではないのだ。では、なぜこの法則が信じられているかというと、過去、永久機関を研究してきた範囲内では、この法則が成立しているように見えたからである。つまり、この法則は正しい確率が高い、という程度の信憑性しか持たないのだ。
 さらに、電気機械式の装置が登場してからは、エネルギー保存の法則の検証はおこなわれていない。法則が成立することを前提として装置が設計されているのだ。つまり、エネルギー保存の法則は、「一種の宗教の聖典」のようなものになっていて、科学者たちはそれを盲目的に信仰しているにすぎないのだ。

 なるほど。その考え方にも一理ある。
 簡単に納得するな、と言われそうだが、納得しないと話が進まないのである。
 つまり、永久機関が完成する可能性はあるわけだ。永久機関が完成した世界‥‥それは、どんな世界になるのだろうか?

 永久機関があれば、エネルギーがいくらでも手に入るということだろう。そうなれば、石油が枯渇しようがもはや問題ではない。なにしろ、エネルギーが無尽蔵に、しかもタダで使えるのだから。
 私たちの生活は一変する。もはや、経済効率など考える必要はなくなるのだ。地球温暖化? 環境保護? 南北問題? そのようなことはもはや問題ではない。地球上のほとんどすべての課題は、エネルギーさえ投入すれば解決するのである。頭を使うよりエネルギーを使え、ということだ。

 よし、なんだか力がみなぎってきたぞ。無理矢理だけど。
 そんなに素晴らしいものなら、私も永久機関の研究を始めることにしよう。
 永久機関が完成すれば、地球はユートピアになるのだ。もはや、人間は努力する必要も、考える必要もなくなる。エネルギーさえ使っていれば幸せになれるのだ。素晴らしい世界がやって来る。まるで夢のような。

 ‥‥悪夢のような気もするが、細かいことは気にしないでほしい。


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