第146回   臓器移植を考える 1997.7.29


 その病院の廊下で、私は臓器提供者を見かけた。
 顔には白布が掛けられ、その提供者を乗せたキャリアは医師に押されてゆっくりと廊下を進んでいた。
 なぜ臓器提供者とわかったのか、というと、医師が歌いながらキャリアを押していたからだ。それは、もの悲しい、こんな歌だった。
「ドナドナドナドナー、臓器を乗せて〜」
 その歌を聞いて、私まで悲しくなってしまった。

 なぜ私が病院にいるのか、それは、精密検査のためである。
 毎年二回、会社で健康診断をしているのだが、そこで「精密検査を要する」との結果が出たのだ。初めてのことである。いままで健康には自信があったのだが、そう言われては仕方がない。30才を過ぎると、やはりあちこちにガタが来るようである。ひょっとして更年期障害だろうか。私は、びくびくしながら自宅近くの病院にやって来たのだ。
 受付で書類を提出すると、すぐに診察室に案内された。私の担当医があらわれる。ゴツい体にゴツい顔、ヒゲをはやして眼鏡をかけた三十代後半の医師だ。東南アジアあたりのヤクの売人といった感じである。信用できるのだろうか。
 そんな私の不安をよそに、その医師はまずレントゲンを撮ると言った。

 撮影はすぐに終わり、その医師は私のレントゲン写真を首をかしげながら眺めている。私は、急に不安になってきた。
「ど、どうなんでしょうか、先生。どこか悪いところでも?」
「うーむ‥‥」
「は、はっきり言ってください!」
「‥‥実に見事な心霊写真だ。ほら、見たまえ、端の方にあるこの影。これは水子の霊だ」
 ぎくっ。
「ん? 今、ぎくっとしなかったか? 何か思い当たることでも?」
「そそそそそんなもの、あるわけないでしょうがっ」
「ならばほら、近くに寄ってもっとよく見たまえ」
「いいいいいや、ここで十分です」
「もっと近づかないとダメだぞ。昔から言うだろう、寄らば胎児の影」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「いやあ、ジョークジョーク。ん? ウケなかったかな?」
 こんな医師が担当だとは。私は、我が身の不運を呪った。

「まあ、冗談はともかくとして、ホントに良くないぞ、これは」
「え?」
「どうやら、腎臓に異常があるようだ。それと、肺にも異常があるな」
「い、異常って、どの程度の‥‥」
「それはもう、ものすごい異常だ。腎臓肺臓過剰に異常〜、というやつだ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「いや、これはジョークではないぞ。はっきり言って、もう手遅れに近い。助かる唯一の方法は、臓器移植をすることだ」
 私は、清水の舞台から突き落とされたような衝撃を受けた。使い方が間違っているかもしれないが、そんなことを気にしている余裕もなかった。

 臓器移植か‥‥。
 いままで、そんなことは自分には関係ないと思っていた。しかし、いざ自分が移植を必要とする立場になってみると、提供者がいるのだろうか、と不安になってくる。
 こんなことなら、私もドナー登録をしておけばよかった。アイバンクなんかよかったかもしれない。腎バンクでもよかっただろう。愛人バンクになら登録していたのだが。

 そんなことを考えていると、医師が突然笑い出した。人が真剣に悩んでいるのに、失敬な。
「わはははは、いやあ、悪い悪い、間違いだ、間違い」
「‥‥間違い?」
「そうだ、間違いだ。あわてて、レントゲン写真を上下逆に見ていただけだ。きみは健康体だよ」
 なんて医師だ。左右ならともかく、上下を逆に見るとは。
「いや、私はもともと耳鼻科の医師でね、内科検診は初めてなんだよ」
「内科の医者じゃないものに内科検診をやらせるなんて、ひどい病院ですね! そんないいかげんなことでいいんですか!」
「医院で内科医?」

 そういうわけで、ちょっとトラブルはあったものの、私の体は健康だ、との結果が出た。一安心である。
 しかし、このトラブルのおかげで私の考え方も変わった。ドナーとして登録してみよう、と思ったのだ。以下の条件にあてはまる人になら、喜んで私の臓器を提供しよう。なんなら、今すぐでもいい。

 条件:20才から25才までの容姿端麗な男性
 提供臓器:脳


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