第168回   財布泥棒  1998.2.11




 朝。
 いつものように定期券で改札口を出る。
 会社までは、住宅地を抜けて少々歩かなければならない。今日も寒かった。私は、コートのポケットに両手を突っ込んで、駅の階段を降りていった。
 階段の下から学生風の男が駆け上がってきた。髪を金色に染めピアスをしている。私のもっとも嫌いなタイプの男だ。そいつは下を向いたまま駆け上がってきて……私にぶつかった。しかし、謝るどころかこちらを見ようともしない。そのまま改札口の方へ走っていった。
 まったく、これだから最近の若い者は……そんなことを考えてしまうのは、年をとった証拠だろうか? まあいい。あんなやつに関わっているひまはない。
 階段を降りながらふと内ポケットに手をあてて驚いた。財布がない。やられた。今の男だ。やはり、外見のとおり中身の人格も最低、ということか。しかし、よりによって私の財布を盗むとは、選択を誤ったな。たっぷり後悔させてやるぞ。私はその男を追って階段を駆け上がった。

 その男は券売機の前にいた。小走りで近づくと、その男の肩をつかむ。
「おい」
 男は振り返った。
「なんだよ、あんた」
「財布を出せ」
「財布? 一体、何のこと……」
 とぼけようとしても、そうはいかないぞ。私は男の言葉が終わる前に、左フックをみぞおちに叩き込んだ。男は腹を押さえてうめき声をあげる。
「て、てめえ、いきなり……」
 私は男の襟首をつかんで引き倒した。背中を思いきり踏みつける。
「うるさい。おまえのような悪党は、徹底的にこらしめてやる!」
 やめてくれ、という声を無視して、男の腹に二、三発蹴りを入れた。おとなしくなった。荒い息をしている。
 私は、男のポケットを探った。茶色の革の財布。これだ。私は財布を自分の内ポケットに入れた。
「反省しろ、この馬鹿が」
 私はそう言い残すと、遠巻きに見守っていた群衆に軽く手を振り、駅をあとにした。

 会社に着くと、席に座る間もなく、向かいに座っている後輩が受話器を握ったまま声をかけてきた。
「あ、うえださん、ちょうどよかった。奥様からお電話です」
 何の用だろう? 私は受話器を取る。妻の声が聞こえた。
「もしもし、あなた? 今朝、お財布を玄関に忘れていったでしょ? 今日は会社で飲み会があるって言ってたけど、大丈夫? ……あなた? 聞いてます? もしもし?」


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