第169回   冷たい瞳  1998.2.13




 眞弓は一瞬責めるような蔑むような冷たい瞳を私の方に向けたが、言葉を発することなくテーブルの上に静かに顔を伏せた。
 かすかに寝息が聞こえる。手を伸ばして軽く頬を叩いてみても反応はない。ビールに仕込んだ睡眠薬が効いたようだ。計算通りなら、丸一日は目を覚まさないはずである。
 眞弓を抱き上げて寝室に運び、会社の制服に着替えさせる。その後ガレージへ連れていき、車の助手席に乗せてシートベルトをしめる。午前1時過ぎ。誰にも目撃されてはいない。私は車を運転し、眞弓の勤める大手食品メーカーの工場へ向かった。車で10分ほどの距離である。

 私が眞弓と結婚したのは3年前のことだ。
 大学時代の友人の結婚式で出会ったのがつきあうきっかけだった。平凡な1年半の交際ののち、平凡な結婚式を挙げた。眞弓は長い黒髪と大きな瞳を持つ小柄な女性で、おとなしい平凡な娘だった。やはり平凡な私には、お似合いの相手だったろう。結婚して3年が過ぎたが、子供を産んでいないその体も表情もいまだに少女の面影をとどめていた。共に仕事を持ち、家事を分担し、休日には二人で少し遠出をする。そんな平凡な幸福が永遠に続く、と思っていたのだが……。
 ある日ふと足を向けた駅前のスナックで、私はユキに出会った。
 ユキはそのスナックではたらいていた女だ。茶色の髪をした、肉付きのよい、ハーフを思わせるような美人だった。よくしゃべり、よく笑う女で、幾たびかそのスナックに通ううちに、私はユキに惹かれ、深みにはまっていった。
 はじめてユキとベッドを共にしたのは3日前。ユキはベッドの中でも大胆だった。余韻に浸りながらユキを抱き寄せ、私は、愛してる、とささやいた。ユキは微笑みながら、かすかにうなづいた。
 その夜、帰宅して眞弓の顔を見るのが怖かった。すでに眠っていることを期待していたのだが、眞弓は起きていた。ドアを開けた私を、無言で迎え入れる。その目には、普段にはない表情が宿っていた。刺すような冷たい瞳だ。
 気付いている。眞弓は気付いている。それを悟ったとき、私は眞弓の殺害を決意していた。

 車は工場へ着いた。
 正門は国道に面していて、この時間でも交通量が多い。私は脇道へそれ、工場の塀に沿って進む。適当なところで車を塀に寄せて止めた。車を踏み台にして、塀を乗り越えるのだ。小柄な眞弓を運ぶのは、それほど苦にはならなかった。
 眞弓を抱き、工場の建物に向かう。窓の少ないコンクリートの壁にぽつんと扉が穿たれている。私は眞弓のIDカードを使ってその扉を開けた。IDカードは眞弓のポケットに入れる。内側からはカードなしでも扉が開くので帰り道には必要ない。
 私は、薄暗い廊下を冷凍倉庫へと歩いていった。大まかな位置は、あらかじめ眞弓から聞き出してある。
 冷凍倉庫の重い扉を開けると、中からは肌を刺す冷気が溢れてくる。広大な倉庫で、加工前の食材が並んでいる。段ボール箱に詰められた野菜、トレーに載った魚介類、天井から吊された豚や鶏。豚などは四肢の形状をとどめており、霜がついて肉の色は見えないものの、あまり気持ちのよい光景ではない。私は急ぎ足で、倉庫の一番奥へと向かった。段ボール箱の隙間、発見しにくい場所に眞弓を横たえる。このまま放置しておけば、まもなく凍死するだろう。
 警備員の巡回に出会うこともなく、私は無事車に戻った。眞弓の死体が発見されるのは、いつになるだろうか。陳腐なアリバイ工作などをする気はなかった。工作がばれた場合、かえって疑われる羽目になるからだ。幸い、私と眞弓の夫婦仲はよいと周囲には思われている。偽装をするより、何も知らない、で押し通す方がよい。
 これで、時間を気にすることなくユキに会うことができる。しかし、結婚するにはしばらく時間をおいた方がよだろう。車を走らせながら思い浮かべるのはユキの顔だ。そして頭の片隅で、眞弓の捜索願を出す時期を思案していた。

 翌々日の金曜日の夕方、捜索願を出すために警察署へ行った。係員の対応はおざなりで、やはり犯罪性がないかぎり真剣に探す気はないのだろう。もちろん私も犯罪性があるなどと言いはしなかった。その日はまっすぐに帰宅し、家でおとなしく酒を飲んでいた。眞弓が発見されたとの報はまだない。
 土曜日。近所のスーパーへ車で出かける。私も、普段はけっこう料理はしていたのだが、眞弓がいなくなり一人になると料理をしようという気がなくなってしまった。もっぱら冷凍食品を主体に買い込む。その際、眞弓が勤める食品メーカーのものを無意識に選んでしまったのは、鎮魂の意味でもあったのだろうか。
 昼食は、買ってきた冷凍のピザをさっそく使うことにした。箱から出し、透明のフィルムを破る。オーブンの中に敷いたアルミホイルの上に載せようとしてピザの上に黒い線があるのを見つけた。つまみあげてみると、髪の毛だ。かなり長い。クレームをつけようかとも思ったが、このピザは眞弓の会社の製品だ。今ここで無用のトラブルを巻き起こすわけにもいかないだろう。その髪の毛をゴミ箱に捨てると、私はピザを調理した。
 夕食。同じく冷凍のピラフを使うことにした。袋を開けたとき、それはすぐに目についた。白くて平たいものが一番上に載っていたのだ。つまみ上げて眺める。爪だ。大きさから見ると小指の爪のようだ。根元にかすかに血の跡があるのを見つけると、あわててゴミ箱の中に捨てた。これも、眞弓の会社の製品だった。
 さすがに不安を感じた。冷凍食品はあまり使ったことがなかったが、こんなことは初めてである。しかも、1日に2回も。私は一人で夜を過ごすことに耐えられなくなり、ユキの店へ向かった。

 ユキはいつもどおり迎えてくれた。私は無理して笑顔を作る。ユキが作ってくれた水割りを飲んでも、酔いはなかなかまわってこない。これからは心置きなくユキに会えるというのに、私の心は晴れない。不安感が私の胸を苛んでいるからだ。私は思わず、ユキの手を握っていた。問いかけるような目で私の顔をのぞき込むユキに、私はささやいた。結婚しよう。
 ユキは予想外の反応を見せた。笑い出したのだ。それは本気で言ってるの。単なる遊びよ。結婚なんて、考えもしなかったわ。

 どこをどう歩いてきたのか記憶にない。気がついたとき、私は自宅でウイスキーのストレートをあおっていた。  私は馬鹿だ。取り返しのつかないことをしてしまった。一時の気の迷いで、眞弓を殺してしまったのだ。涙を流しながら、私は浴びるように飲んだ。そして、気がついたときは朝になっていた。
 頭を振って立ち上がる。喉が乾ききっていた。冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取り出し、そのまま口に付けて飲む。食欲はまったくなかったが、条件反射のように冷凍庫を開けていた。昨日買ってきた冷凍のラザニアの袋を取り出す。ふと不安感が頭をよぎったが、その原因を思い出せないまま封を切った。うっすらと霜の降りたラザニアの上に、親指大のものが載っている。何気なくつまみ上げて顔の前に持ってきたが、正体に気付き悲鳴をあげて放り出した。それは、文字通り親指だった。第一関節で切り取られた親指がラザニアの上に載っていたのだ。
 不安感の正体を思い出した。髪の毛、爪、そして親指。冷凍食品の中にこんなものが紛れ込むなど、常識では考えられない。しかもすべて、眞弓の会社の製品だ。
 眞弓の会社の製品。まさか。私は、先ほど放り出した親指をおそるおそる観察した。指の腹、やや左寄りのところに、1センチほどの傷がある。眞弓の左親指にも、同じ位置に包丁で切った傷があった。間違いない。眞弓の指だ。
 私の手は、のろのろと冷蔵庫の扉に伸びていった。自分の手ではないかのように、現実感が希薄になっている。私の手は冷凍のハンバーグを取り出し、のろのろと封を切る。やはり、あった。今度は耳たぶだ。その形もピアスの穴の位置も見覚えがあった。
 冷凍庫の中を眺めたが、そこはもう空だった。ゴミ箱の中から、昨日捨てた髪の毛と爪を取り出す。親指、耳たぶと並べて眺める。
 眞弓。お前は、ここに帰ってこようとしているのか。私に会いに。
 私は車に乗り、スーパーに向かった。

 レジの女性が向ける奇異の目も気にせず、眞弓の会社の冷凍食品を大量に買い込んできた。家に着くとそのままキッチンに座り込み、もどかしく袋から取り出す。
 まず手に取ったのは焼きおにぎりだ。封を切ると、おにぎりの間に3センチほどのピンク色の肉片がはさまっていた。内臓の一部だろうか。これも眞弓だ。
 次に開けた白身魚フライの袋からは臼歯が出てきた。餃子からは足の小指が。あらびき肉シューマイからは灰色の物体、おそらく大脳の一部が。
 そして、10個入りのたこやきの袋を手に取る。中にはたこやきが9個と、そして、眼球が1個入っていた。全体がかすかに青味がかった中で、茶色の虹彩が美しい。間違いなく眞弓の眼球だった。
 私は、取り憑かれたように冷凍食品の袋を開け続けた。取り出された眞弓の破片を並べていく。眞弓の姿がなかなか見えてこないのがもどかしかった。
 袋はすべて開けてしまった。しかし、まだまだ足りない。10分の1も集まっていないだろう。またスーパーへ買いに行かなければ。

 眞弓。
 私は、床に並べられた眞弓に話しかける。
 やはりお前は帰ってくるのか。この家に。私の元に。
 馬鹿な私を、お前を殺した私を、許してくれるのか。
 いや。許すわけがない。許せるはずがない。
 帰ってくるのは復讐のためだ。そうだろう、眞弓?

 その言葉に答えるかのように、眼球がころりと転がり、私の顔を見た。
 冷たい瞳だった。


第168回へ / 第169回 / 第170回へ

 目次へ戻る