第190回   ドアを開けてください  1998.7.4





 ゴン! いてててて。
 ……といっても、骨折した中山選手ではない。私の頭がドアに激突した音だ。いてててて。またやってしまった。

 私の会社の社屋には、セキュリティ確保のために、外部への出入口をはじめ各所にカードロックのドアがある。社員に支給されるIDカードでロックを開けないと通過できないドアだ。このドア、定時内は鍵がかかっておらず軽く押すだけで開くのだが、定時を過ぎたとたんに鍵がかかる。このことを忘れて、ついいつもどおりドアを開けようとしてしまったのだ。
 ドアに向かって歩きながら左手を前に出す。そのままスピードを落とさずにドアに突進するとどうなるか。左手首はイヤな音をたてて曲がり、体は慣性の法則に従ってドアに激突し、頭をドアにぶつける羽目になる。いてててて。私の行く手を阻む冷酷なドア。非常に非情なドアだ。ううむ、これが世界の壁か。さすがに世界の壁は厚い。三連敗するのも無理はないだろう。いや、だから中山選手の話ではないって。

 私などは頭をぶつけた程度だからまだ軽い方だが、このカードロックシステムの被害者は多い。ドアに突っ込んで手首をくじいた者十五名。手首を骨折した者三名。足を捻挫した者九名。膝の皿を砕いた者二名。肋骨にひびが入った者一名。尾てい骨の粉砕骨折が一名。どういう状況で怪我をしたのかよくわからない者もいるが、とにかくこれだけの被害者が出ているのだ。
 そしてついに先日、最悪の事態が発生した。定時ぎりぎりになってドアをすり抜けようとした社員が、閉まるドアにはさまれて圧死したのだ。まさに悲劇である。このような事故が起きることを、果たして予測できなかったものだろうか。当然、組合から会社側に厳重な抗議がおこなわれたが、会社はすげなくこう答えるばかりだった。「圧死には関わり合いのないことでござんす」
 この事故のあったドアのそばには牛乳瓶が置かれ、毎朝新しい花が供えられている。

 それはともかく、私はまたもカードロックで失敗をしてしまった。休日出勤をした際、IDカードを家に忘れてきてしまったのだ。
 休日は一日中、すべてのドアに鍵がかかっている。IDカードがないと社屋に入ることさえできない。敷地内の駐車場に車を止め、通用口から入ろうとして、ようやく忘れてきたことに気がついた。ううむ、どうするか。家に取りに帰るのも面倒だ。仕方がない、待っていれば同じように休日出勤してくる者がいるだろう。その人がドアを開けたときに、一緒に入れてもらうことにしよう。
 五分ほど待ったが、誰も来る気配がない。って、気配が感じとれるほどの達人ではないが。こんなところでボーッと突っ立ってるのもなんなので、うろうろとその辺を歩いてみる。通用口から正面入口へ。ひょっとして、と思ったが、当然ながら正面入口も開かなかった。
 ふと後ろを振り返ると、一人の女性が通用口へ向かって歩いている。よし、やっと入れるぞ。私は小走りに、その女性の方へ近づいていく。足音に気がついたのか、その女性が私の方を見た。目が怯えているようだ。こ、こら、なんだその目は。私は別に怪しい者ではない。あなたをどうこうしようというつもりもない。ただ、社屋に入れてもらえれば満足なのだ。しかし、その女性は私から顔をそむけると、通用口へ向かって足を速めた。おい、待ってくれ。私も入れてくれ。ついに私は駆け足になる。その女性はもう一度私の方を見た。だ、だから、そんな目をするなと言うのに。走るな。逃げるな。悲鳴をあげるな。待て。待てと言うのに。
 その女性はついに通用口へたどりついた。素早くIDカードを取り出すとドアを開け、中に入る。私も全速力で通用口に突進したが、ドアは私の目の前で閉まってしまった。ううむ、タッチの差で追いつけなかったか。残念である。けっこう可愛い女の子だったのに。……いや、違う違う。目的と手段を取り違えてはいけない。いや、手段というわけでもなくて、ええと、まあとにかくまだ社屋に入れないことは確かである。

 一体どうしたらいいのか。失意に打ちのめされながら、私はとぼとぼと社屋のまわりを歩き始めた。ほどなく中庭に出る。そうだ、ここにもドアがあったはずだ。社屋内のコンビニに通じるドアである。
 ドアは桜の木の向こうにあった。休日なのでコンビニは休業、そして当然ながらドアにも鍵がかかっている。しかし、このドアは通用口や正面入口ほど頑丈ではなさそうだ。これならなんとかなるかもしれない。私はドアを力任せに引っ張ってみた。駄目だ。開かない。ガラスを割るか。私はしゃがみ込んで調べてみた。それほど厚くはない。これならなんとか……。
 ふと顔を上げると、コンビニの向こう、ガラス越しに誰かが見つめている。先ほどの女性だ。その目はやはり、怯えたような蔑むような表情をしている。こ、こら、なんだその目は。私は別に怪しい者ではない。何を取り出しているんだ。それは携帯電話じゃないか。どこへかけている。ま、まさか、警察か?
 たまらず、私はその場から逃げ出した。ううむ、中に入ることはできなかったか。残念である。あのコンビニのレジには金があったはずなのに。……いや、違う違う、目的と手段を取り違えてはいけない。いや、手段というわけでもなくて、ええと、まあとにかくまだ社屋に入れないことは確かである。

 仕方ない。社屋に入るのはあきらめて、今日は帰ろう。ただでさえ日本人は働きすぎだと言われているのに、休日出勤などしていてはいけないだろう。仕事は遅れ上司に叱られるかもしれないが、なあに、これも日本人の労働時間を少しでも下げるためだ。などと自己犠牲精神を発揮しつつ家路に着いた。
 夜になり、テレビで阪神タイガースのナイターを見つつビールを飲んでいると、昼のことを思い出して不安が頭をもたげてきた。仕事が遅れることで叱られるのはかまわない。しかし、痴漢や泥棒と間違えられるのは心外である。あの女性に、顔を覚えられてはいないだろうか。指紋を残してはいないだろうか。
 そう考えたとき、玄関のチャイムが鳴った。
「警察です。少々おうかがいしたいことがあるのですが。ドアを開けてください」




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