第201回   バスルームの恐怖  1998.8.19





 ガターンッ!
 ……という音が家の中に響きわたったとき、私は腎臓が止まるほどのショックを受けた。

 なにしろその音は、読売テレビで深夜二時から放送していた『稲川淳二の怖い話II』を見ている最中、しかもストーリーは前半の山場、幼い兄妹二人を火事で亡くした母親が病院のベッドで寝ていると窓の外にその兄妹の姿がぼんやりと浮かび上がるという場面で響いたからである。
 音はどうやらバスルームの方から聞こえたようだ。私は意を決して立上がると、バスルームの方へ歩き始めた。
 バスルームで私を待っているものは何か。カーテンの陰に隠れ、手には剃刀を持った殺人鬼。天井から逆さまにぶら下がる血まみれの生首。壁に半分埋まった鎧武者。浴槽に浮かぶ黒猫の死骸。排水口から顔を出す白いワニ。……いやいや、そんな想像をしてはいけない。今までこの家で怪奇現象が起こったことなどなかったではないか。もう少し楽しげなことを想像しよう。半裸の姿態をシャワーで濡らしながら豊かな黒髪をかき上げている妙齢の美女。ううむ、それはそれで怖いか。などと考えているうちにバスルームに着いた。

 おそるおそるバスルームのドアを開ける。
 しかし、そこには誰もいなかった。殺人鬼も生首も鎧武者も黒猫もワニも美女も。
 では、いったい何の音だったのかと思って下を見ると、トレーが落ちていた。そう、吸盤で壁に貼り付け、シャンプーなどを入れておくトレーである。載せたものもろともこのトレーが落下した音だったのだ。なんだ、別に怪奇現象でもなんでもないじゃないか。安心した。
 いや、ちょっと待ってくれ。なぜこのトレーが落ちたのかが問題である。そこに怪奇現象の入り込む余地がありはしないか。別に怪奇現象を期待しているわけではないが、原因を究明しないと安心できない。バスルームで昼寝をしているときなどに頭の上に落ちてきたら一大事ではないか。調査しなければならない。

 まず、床に散らばったものを拾い集める。これらがみんな、トレーの上に載っていたわけか。
 資生堂スーパーマイルドシャンプー。同リンス。花王パウダーinビオレU。花王ピュアブーケエチュール石鹸。キティちゃんのシャンプーハット。ライオンこどもはみがきイチゴ味。アンモナイトの化石。サクラふちどりマーカー。止血鉗子。膣内鏡。特に不審なものはない。
 これだけ載っていたら、落ちるのも当然……なのだろうか? そもそもこの吸盤は、どれだけの荷重を支えることができるのだろう。買ったときの説明書に書いてあったような気もするが、そんなものが残っているはずもない。まさか『最大積載量:ギャルだけ』ではないだろう。ええと、確か計算で求められたはずだぞ。吸盤の表面積に対し、1気圧の圧力がかかるとすれば……。
 ……ああ駄目だ。こんな複雑な計算は、物理の専門家でもなければできないだろう。

 計算はあきらめて、あらためて吸盤を手に取る。どうしようか。このまま何事もなかったようなふりをして、元通りに壁に貼り付けておこうか。
 いや、それでは何も解決しない。バスルームで漫画を描いているときなどに原稿用紙の上に落ちてきたら一大事ではないか。危険だ。非常に危険だ。これを『キューバん危機』と名付けよう。
 とりあえず名前を付けて安心したところで、吸盤の裏を見る。汚れている。どうやら水垢のようだ。なるほど、この水垢が原因か。これを取れば、吸着力が回復するかもしれない。キューバだけに、カス取ろ、ということか。

 ……いかんいかん、オチもキューバしのぎだ。




第200回へ / 第201回 / 第202回へ

 目次へ戻る