第225回   忘れな傘をあなたに  1998.12.2





 上野駅で山手線を降り階段を上りかけたとき、何かが足りないのに気が付いた。
 知恵が足りない。思慮が足りない。分別が足りない。ううむ、確かにそのとおりだが、それはいつものことだ。そうではなくて、今日に限って足りないものがある。階段の途中で立ち止まって考慮すること数秒、ようやく思い出した。傘だ。今朝あったはずの傘が、いや、山手線に乗るまではあったはずの傘が、今はない。
 一体どこで忘れたのか。考えうる可能性は一つ、山手線の中だ。うむ、我ながら見事な推理である。誰だよ、知恵が足りないなんて言ったのは。
 などと考えているうちに山手線はドアを閉めて走り去ってしまった。なんてことだ。もたもたせずに引き返せば傘を取り戻せたかもしれないのに。やっぱり知恵が足りないのか。
 まあいい、なくしてしまったものは仕方がない。……というわけにはいかないのだ。あの傘は、ピカチュウの絵がプリントされたお気に入りの逸品である。なんとしてでも取り返さねばならない。次の列車で追いかけるか。いや、ダメだ。山手線では山手線に追いつけないのは、アキレスが亀に追いつけないのと同じくらい確実だ。逆回りで捕まえるとか、この上野駅で待ち伏せするとかいう方法もダメだ。あの列車を特定するすべがない。ここはおとなしく、忘れ物センターに出頭しよう。
 忘れ物というのは、終着駅の忘れ物センターに集められるはずだから、ええと、山手線の終着駅というのは……はっ! しくしくしく。

 そして十分後、私は東京駅にいた。
 いつまでも泣いているわけにはいかない。困ったときの東京駅、東京駅に来ればすべては解決するだろう。解決するはずだ。
 丸の内南口ホールの改札口の前に立つ。そういえば、ここが、大正10年11月4日、原敬首相が暗殺された場所である。なるほど、そういえば床には白いチョークで人の形が描かれている。ロープが張られ、鑑識課員のような人々が何やら忙しく働いている。しかし、もう80年も前の事件だ、今さら証拠やら何やらが出てくるとは思えないのだが。大体、とっくの昔に時効になっているのではないか?
 まあいい。とりあえず原敬は関係ない。今はピカチュウの傘の方が大事だ。ええと、忘れ物センターは、と。案内板を見る。しまった、八重洲南口の方じゃないか。逆方向だった。そうか、正式名称は「お忘れ物承り所」というのか。

 お忘れ物承り所には先客が数人いた。四十才くらいの女性が係員と何やら話している。
「新幹線の中にポチを忘れたんですけど、届いてませんでしょうか?」
「ポチ? 犬ですか? まさか、ポチという名前の猫だとかいう、ありきたりのオチじゃないでしょうね」
「いえ、オチじゃなくてポチなんですけど」
 そんな会話を聞くともなしに聞きながら、あたりを見回す。棚には様々な物が並んでいる。これがすべて忘れ物だということか。まったく、人間というものは、こんなに何でも忘れることができるのか。なぜ忘れ物をするのか? そこに物があるからだ。
 エレキギターがある。新巻鮭がある。ノートパソコンがある。信楽焼の狸がある。骨壺がある。自転車がある。人工心臓がある。宇宙服がある。粒子加速装置がある。
 意外と多いのが本だ。田中芳樹の『東京ナイトメア』がある。松本人志の『愛』がある。西村京太郎の『上越新幹線殺人事件』がある。大川隆法の『幸福の革命』がある。なるほど、ここにくれば、今何がベストセラーになっているか一目でわかるな。それから、ジャンプがあるサンデーがあるマガジンがある。……って、それは忘れ物ではなく捨てていったものだと思うが。
 そして書棚の一番上に、なにやら古ぼけた本が。あ、あれはもしや、伝説と言われる海野十三の『海底軍艦』初版本では? ううっ、欲しい。欲しいぞ。

 などと考えているうちに私の番が回ってきた。あたりを見回しても傘がどこにも置いてないのが少々気になったが、私は係員に言った。
「あの、傘を探してるんですが……」
「傘?」
 目に見えて、係員の顔色が変わった。
「あ、あの、何かまずいこと言いましたか?」
「い、いえ、そんなことはありません……」
 係員はカウンター横の扉を開けて低い声で言った。
「さ、こちらへどうぞ」
 私は係員の後をついていった。どんどん奥に入って行く。しばらくして階段を降りはじめた。薄暗く狭い階段だ。勾配も急で、まるで地の底まで続いているかのようだ。だんだんと不安になってきた。いったい、どこへ連れて行かれるのだろう。まさか、「傘を探している」という言葉がどこかの秘密結社の合い言葉になっていたりして。地下室では神をも恐れぬ背徳の儀式がおこなわれているのではなかろうな。それとも、このまま手足を切られ香港に売り飛ばされるとか。そんなありきたりのオチはイヤだぞ。
 ようやく階段が終わった。正面には、重そうな鉄の扉がある。……この中が、儀式の場か。
「どうぞ、ここです」
 係員はそう言うと扉を開けた。私は意を決して中に入る。

 目の前には、広大な空間が広がっていた。東京ドームよりはるかに大きい。向こうの壁が霞んで見えない。まさか、東京駅の地下深くにこんな空間があるとは思わなかった。
 そして、見渡す限り並んだ傘、傘、傘。
「ひょっとして、これが全部忘れ物ですか?」
「そうです。明治五年に新橋横浜間に鉄道が開通して以来、すべての傘の忘れ物がここに集積されています」
「いったい、何本くらいあるんでしょう?」
「去年、傘マニアの好事家が来て数えていったんですが、およそ五十六億七千万本ほどかと」
 ううむ、一年に一本ずつチェックしていけば、弥勒の降臨までにはなんとかなりそうだ。よし、挑戦してみるか。でも、傘化けなんかが出てきたらちょっと怖いな。
 と考えながらふと上を見上げる。はるか高みに見える天井の梁の一角に唐傘が一本引っかかっていた。
「あの傘はなんでしょうか?」
「ああ、あれは、左甚五郎の忘れ傘です」
 ううむ、それもありきたりのオチだぞ。




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