第242回   危ない通勤電車  1999.3.8





 通勤電車の中で本を読んでいる人は多いが、ほとんどの人は書店でつけてくれるブックカバーをしたままなのはなぜだろう。そんなに自分の読んでいる本を他人に知られたくないのだろうか。そんなに恥ずかしい本を読んでいるのだろうか。
 まあいい。カバーをかけておいてくれた方が、こちらとしても楽しみが増える。どんな楽しみかというと、書名を当てる楽しみである。他人の読んでいる本を横からのぞき込んで、その文章から書名を推理するのだ。
 しかし、中にはページの左上などに書名の書いてある本も多い。そういう本は推理するまでもなく解ってしまうのでつまらない。京極夏彦の本のように、外見だけで解ってしまう本も失格である。あくまで、中の文章だけで勝負せねばならないのだ。
 どのように推理するかというと、一番大きな手がかりは固有名詞、特に人名である。人名が出てくれば、読んだことのある本なら大体は解る。まあ、さすがに


 十津川警部は言った。
「あなたが犯人です」


だけでは、西村京太郎の著作だということはわかっても書名まで当てるのは至難の技である。いや、作者本人でさえ当てられないだろう。

 まあ、それはともかく。
 今朝もいつもどおり電車に乗った。かなり混んでいて、立っている私の周囲も人で埋まっている。ざっと見回すと、周りの人間はみんな本を読んでいるようだ。よしよし。これでしばらく暇つぶしができるぞ。そう思って、まず正面を見る。三十前後の、眼鏡をかけた男性がいた。この男の読んでいる本は、というと……。
 うっ。推理するまでもない。なぜなら、カバーを掛けていなかったからだ。この男が読んでいるのはタウンページである。にやにや笑いながらページをめくっている。いかんいかん。目を合わさないようにしなければ。私はさりげなく顔を背ける。その男の隣にいたのは、五十がらみの髪の毛の薄くなりかけたおじさんである。カバーを掛けた文庫本を読んでいる。よかった。この人はまともだぞ。
 さっそく、そのおじさんの読んでいる本をのぞき込む。坂本龍馬、という固有名詞が目に入った。ふむ、すると幕末ものか。司馬遼太郎かな。そう考えながら、文章を目で追う。


「リョーマ。君はどうやら、純粋な日本人じゃないようだな」
 そう言ったホームズを、坂本龍馬は横目で軽くにらんだ。ホームズの後ろでは、ワトソンが微笑を浮かべている。
「……そうだ。よく解ったな」


 なんだなんだ。幕末ものじゃないのか? なぜホームズとワトソンが出てくる? だいたい、時代考証はそれで合っているのか?


「なに、顔つきも日本人離れしているし、なによりその体格だ。日本人には、それほど背が高い者はいない」
「……そのとおり。私の祖父はクルド人の漂流民だった。私には、異人の血が流れているのだ」
 ホームズはパイプに火をつけながら静かに言う。
「なるほど。どうやらそれで謎が解けそうだ。そろそろ聞かせてくれないか? 君の家に伝わる子守歌を。それが、今回の事件の鍵なんだ」
「……そこまで知っているとは、つくづく恐ろしい人だな、ホームズ。いいだろう、聞かせよう。こんな歌だ。♪大きなのっぽのクルド系、おじいさんの家系〜」


 なんだこれは。幕末ものなのかミステリなのかギャグなのか。む。このおじさんも、にやにや笑っているぞ。いかんいかん。目を合わさないようにしなければ。私はさりげなく顔を背けた。その顔の先には、さっきのタウンページ男がいる。はっ、今度はこの男、タウンページを頭に載せて踊り始めたぞ。いかんいかんいかん。目を合わさないようにしなければ。私は、さりげなく反対側に顔を背けた。
 そこにいたのは二十代半ばくらいの女性である。新書版の本を読んでいる。よかった、この女性はまともそうだぞ。私はようやく安心して、その女性の読んでいる本をのぞき込んだ。


 ……殺してやりたい。


 いきなり目に飛び込んできたのは、こんな一節である。どうやらミステリのようだ。


 ……私の心の中に殺意が沸き上がる。抑えようとしても抑えきれない殺意。いや、今となっては抑える気などない。
 殺してやる、あの男。
 毎朝出会う、あの男。
 通勤電車の、あの男。
 毎日毎日、私の読んでいる本をのぞき込む男。本当に図々しい男だ。殺してやる。必ず殺してやる。
 私がそう考えているとも知らず、その男は今朝も私の本をのぞき込む。
 ほら、今ものぞき込んでいるのだ。


 私がそこまで読んだとき、その女性が顔を上げた。私の方を見て、にやにや笑っている。いかんいかん。目が合ってしまった。私はあわてて、体を後ろに向ける。そこにいたのは、男子高校生の二人組である。一人は日経流通新聞を、一人は『六十代からの性生活』を読みながら、ときおり顔を見合わせてにやにやしている。いかんいかん。目を合わせないようにしなければ。
 鞄を開けると、私は『なかよし』三月号を取り出すと一心不乱に読み始めた。もちろん、ときおりにやにやするのも忘れない。よし、これで安心だ。何しろ、木を隠すには森の中、と言うからな。




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