第243回 引き出しの中の失楽 1999.3.15
出向ということで去年の秋から大阪と東京の二重生活を強いられてきたのだが、いよいよ東京を去る日が近づいてきた。東京支社に出勤するのも今週で最後である。
帰るに当たっては、やはり仕事の処理だけはきちんとやっておきたいと思って最近はかなり忙しくしていたのだが、おかげですでに各担当者に対する業務の引き継ぎは終わっている。あとは、自分のデスクを片づけるだけだ。引き出しの中身を一気に棚卸しし、引き渡すべきものは引き渡し、持ち帰るべきものは持ち帰り、捨てるべきものは捨てる。立つ鳥あとを濁さずの言葉どおり、誰からも後ろ指を指されないように綺麗に片づけておかねばならないのだ。それが社会人としての当然の義務である。
午後九時。周りの人間はみな帰宅し、オフィスは閑散としている。残っているのは私一人だ。まさに、引き出しの中を片づけるチャンスである。デスクの引き出しは三段でキャスター付き、デスクとは分離していて独立に動かせるようになっている。私は引き出しを動かして角度を変え中が見やすいようにすると、おもむろに作業を始めた。まずは一番上の段からだ。
開けると、まず目に飛び込んできたのは菓子の山だ。クッキー、せんべい、チョコレート、ガム、飴、うなぎパイ、赤福餅、キティーちゃんの人形焼きなど、こまごました菓子がぎっしり詰まっている。ううむ、なんだこれは。……そうだ、思い出した。課員が出張や旅行などから帰ってきたとき、買ってきたおみやげをみんなに配ることがよくある。それを、あとで食べようと思ってとりあえず引き出しに入れておいたのだ。いつの間にかこんなにたまっていたとは。
しかし、一体いつのおみやげだ? この赤福餅なんか、ほとんど石化しているぞ。まあ、私が東京支社に来てからだから一年は経っていないとはいえ、賞味期限はとっくに過ぎているだろう。かといって、食べ物を捨てるというのもお天道様に申し訳ない。仕方ない、明日隣の席の渡部をだまして食べさせることにしよう。と考え、とりあえず机の上に置いておく。
菓子を取り除くと、その奥からテレホンカードが十枚ほど出てきた。ううむ、なんだこれは。……そうだ、思い出した。新商品の販売促進用の粗品である。これはと思う客先に行ったら渡してくるように、と言われて引き出しにしまい込み、そのまま忘れていたものだ。今から配りに回るわけにもいかないし、このまま返却するのもばつが悪い。どうしよう。
そうだ、これはそのまま金券ショップにでも売り払おう。いくばくかの金にはなるだろう。そう考えて、上着のポケットに入れた。
そのテレホンカードの隣にあったのが名刺の束である。ううむ、なんだこれは。……などと、別に考えるまでもない。客先の担当者からもらってきた名刺だ。これはどう処理するか。
そうだ、銀座の高級クラブにでも飲みに行ったときに、「請求書はここに回してくれ」と言って渡してしまおう。なあに、けっこう大企業が多いから私一人の飲み代くらいで会社が傾くこともあるまい。罪悪感を感じずにすむというものだ。
一段目は終了、二段目に取りかかる。
出てきたのは、書類の束だ。「契約書」とか「極秘」とか仰々しいことが書いてあって、判がべたべたと押してある。ううむ、なんだこれは。……下の方を見ると、どこかで見たような名前が書いてある。なんだ、向かいの席の中村の書類だったのか。どこで紛れ込んだのだろう。ほら、返すぞ中村。
と、中村のデスクに置こうとしたが、そこには花瓶があって花が生けてあった。……そうだ、思い出した。中村はついこの間死んで、昨日が葬式だったのだ。なんでも、非常に重要な客先との契約書類を紛失してしまい、自宅も会社も隅々まで探したが見つからず、上司からも客からもこっぴどく叱られて思い悩んだ末に中央線に投身自殺した、とのことである。ううむ、本人がすでにこの世にいないんじゃあ、返しても意味がないな。この書類はシュレッダーにかけてしまおう。ガリガリガリガリ。迷わず成仏してくれよ。
そして三段目。この三段目が問題である。なぜなら、私は見てしまったからだ。
去年の秋、ちょうど今のように一人でオフィスに残っていた時のことである。私はちょっと休憩しようとデスクを離れ、自販機までコーヒーを買いに行った。そして戻ってくるとき、この三段目の引き出しが勝手に開くのを見たのだ。そして、そのわずかに開いた隙間から、何か細長いものがのぞいていた。太さは人間の指くらい、てらてらと黒光りしていて昆虫の足のような剛毛が生え、先には鋭い鉤爪が付いている。あっけにとられて見ていると、その「指」はすっと引っ込み、引き出しも閉まった。それ以来、三段目の引き出しは開けていない。
ううむどうしよう、この引き出しも整理しないといけないのか。開けたくないなあ。いやでも、一段目と二段目は社会人の良識に従って完璧に処理してきたのだ。三段目だけ残しておくわけにはいかない。私は意を決して、三段目に指をかけるとそろそろと開いていった。
三センチほど開いたとき、先ほどデスクの上に置いた菓子の山が崩れた。なだれ落ちて引き出しの中に入る。私は驚いて指を離すと椅子から飛び上がってその場を逃げた。三メートルほど離れたところからこわごわ眺める。引き出しの中から、何か音がしている。まさか……食っているのか? あの賞味期限切れの菓子を? おそるおそる近づくと、菓子の山からせんべいを取り上げた。開いた引き出しの隙間に落とす。ばりぼりばりぼり。やはり食っている。
この中にいるのが何ものかはわからないが、とにかく菓子は食うようだ。これはいい。始末する手間がはぶける。私は、デスクの上の菓子の山をすべて引き出しに落とし込んだ。ばりぼりばりぼり。よしよし、食ってる食ってる。
しばらくして音がしなくなった。どうやら食い終わったようだ。すると、引き出しの隙間から細長いものが出てきた。そう、去年の秋に見た、あの「指」である。何かを求めるように、ゆっくりと動いている。まだ食い足りないようだ。あああごめん、もう菓子はないのだ。許してくれ。
しかし、「指」は引っ込まない。だんだん動きが速くなってくる。気のせいか、引き出しもだんだん開いてきているようだ。まずい。なんとかしなければ。私自身が食われるような事態だけは避けねばならない。……と、そこに都合よく子猫が通りかかった。これだ。私は子猫の首筋をつかむと引き出しを一気に開け、中を見ないようにして子猫をたたき込むと急いで閉めた。暴れている。猫のすさまじい鳴き声が聞こえる。しかしその声もやがて途絶え、再び何かをむさぼり食う音だけになった。
今のうちに逃げよう。次は私の番かもしれない。しかし、この引き出しはどうする? このままでいいのか? ううむ……そうだ、隣の席の渡部の引き出しと交換してしまおう。なに、こいつが食った菓子の山はもともと渡部にやるつもりだったのだ。だったら、渡部がこいつの面倒を見るのも当然だろう。渡部の引き出しのキャスターのストッパーをはずすとデスクの下から引っぱり出す。そこに自分の引き出しを入れる。そして、渡部の引き出しを自分のデスクの下に押し込んだ。
終わった。これで残務整理は完璧である。思い残すことなく、大阪に帰れるというものだ。
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