第258回 笑う赤ん坊 1999.5.22
今日のフロアはめずらしく静かだった。
仕事の手を休め、さりげなくまわりを見る。普段なら、通路を歩く者の足音やパソコンのキーを叩く音、窓際のテーブルで打ち合わせなどをしている者の話し声などが聞こえてくるのだが、私のまわりは静寂に包まれている。いつも流れているはずのクラシックのBGMさえ聞こえない。
では、人がいないのかというと、そんなことはない。いつもと同じくらいの人数の社員が、忙しく仕事をしている。にもかかわらず、異様に静かなのだ。
いや、まあ、たまにはこんな日もあるさ、と、浮かびかけた疑問を頭から振り払い、再び仕事にかかる。
その時。
どこからか、赤ん坊の笑い声が聞こえてきた。
私はぎょっとして、思わずあたりを見回す。他の者は平然と仕事を続けている。空耳だったのか、そう思ってパソコンに向かったが、赤ん坊の笑い声は再び聞こえてきた。背筋に寒気が走る。
誰だよ、会社に赤ん坊なんか連れてきたのは。
今年の新入社員は、ずいぶん若いなあ。
産むんなら病院へ行けって。会社で産まれちゃ迷惑だ。
などとギャグでごまかそうとしたが、恐怖は去らない。そして三度、赤ん坊の笑い声。
私はたまらず、隣の席の同僚に声をかけた。
「聞こえたろ? 今の」
同僚は怪訝そうな顔を向ける。
「今のって?」
「赤ん坊の笑い声だよ。聞こえただろ?」
「なに言ってるんだ。赤ん坊がいるわけないだろう」
「でも確かに聞こえ……」
ふと気がつくと、まわりの席の数人が私の方を見つめている。今の会話を聞いていたのだろう。
「赤ん坊の声なんか聞こえたか?」
「いや、何も聞こえませんでしたけど」
「そうだよなあ」
そんなことをささやきあっている。
「……い、いや、空耳だろう、きっと」
私はそうつぶやいて会話をうち切ると再びパソコンに向かった。そこへまた、赤ん坊の笑い声。周囲の者は何も反応しない。すると、この声は私にしか聞こえないのか。私は必死で恐怖を覆い隠す。
この赤ん坊の笑い声のせいで、意識して忘れようとしていたことを思い出してしまった。眞弓のことだ。
私の恋人……だった眞弓。私が捨てた眞弓。その眞弓は、つい一月前まで、このフロアの通路をはさんで反対側の席に座っていた。
そう、今から一月前、私は眞弓から妊娠の事実を告げられたのだ。それを聞いて、私は逃げた。卑怯にも逃げてしまった。眞弓を捨てて。そしてその翌日、眞弓は交通事故に遭った。胎児は死亡。眞弓は重体。今日に至るも、眞弓は意識を回復していない、との話である。
眞弓は自殺を図ったのだろうか。そんな疑問が頭をかすめたが、誰にも聞くことはできなかった。私と眞弓の関係は、誰にも知られていない。だったら……そう、だったら、このまま何も知らないふりをしていればいいのだ。何もなかったことにしてしまえばいいのだ。一度逃げてしまった私だ、こうなれば、とことん卑怯者になってやろうじゃないか。そんな自嘲的なことを考え、そして私は眞弓のことを忘れた。忘れようとした。
赤ん坊の笑い声はまだ聞こえる。どこからともなく聞こえてくる。
いや。どこからともなく、ではない。ある方向から聞こえてくるようだ。私は意を決して立ち上がり、声が聞こえてくる方向へゆっくりと歩いていった。笑い声は、だんだんと大きくなってくる。
あった。これだ。眞弓の席の隣に置いてある、この古ぼけたレーザープリンターだ。赤ん坊の笑い声はここから聞こえてくるのだ。しばらく見ていると、やがてプリンターは紙を吐き出し始めた。どこかで紙詰まりでも起こしているのだろうか、赤ん坊の笑い声のような奇妙な音を響かせながら。
私は安堵のため息をついた。なるほど、そういうことか。まさに、幽霊の正体見たり枯れプリンター、だな。字余り。ははは。
プリンターの前に立っている私を見て、通りかかった社員が声をかけてきた。
「そのプリンター、最近調子悪いんですよね。変な音はするし、文字化けばかりでまともに印刷できないし。修理に出した方がいいかなあ」
「まるで赤ん坊の声みたいな音がするからなあ」
「えーっ、そうですか?」
などと会話をしつつ、出てきた紙を手にとってながめる。印刷されていたのは、数字の羅列だった。01011110101011001011001000……。そんな数字が一面に並んでいる。なるほど、こりゃあ修理が必要だな、ははは。それにしても、赤ん坊だと思ったら二進法だったとは。ダジャレにしても、かなり苦しいぞ、ははは。
私は笑いをかみ殺しながら自分のデスクに戻った。
これで安心して仕事ができる。相変わらず赤ん坊の笑い声は聞こえるが、正体がわかったからにはもう怖くないぞ。そう考えてパソコンに向かった。しばらくそのまま仕事を続ける。
しかし。
また新たな疑問が浮かんできた。
どうして私にだけ、赤ん坊の笑い声に聞こえるのだ?
他の者には、単なる作動不良の音にしか聞こえないというのに。
そう考えると、再び恐怖がじわじわと頭をもたげてくる。
その時、またプリンターから赤ん坊の笑い声が聞こえた。
そして、それに重なるようにして女性の笑い声も。
眞弓だ。
これは、眞弓の笑い声だ。
プリンターが紙を吐き出したが、印刷されているものを見に行く勇気はなかった。
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