第298回   消臭令嬢  2000.2.6





 電車に乗っていると、妙な人に出くわすことが多い。
 扉に向かって何やらぶつぶつつぶやいている人、中吊り広告を片っ端から大声で読み上げている人、手の甲に「明日、保険証」とマジックでメモしてある人、三メートル離れていても何を聞いているのかはっきりわかるほどの大音量でヘッドホンステレオを聞いている人、運転席のすぐ後ろに陣取って「へたくそ」とか「ブレーキが早すぎるぞ」とかいちいちツッコミを入れている人などだ。そういう人たちに出会ったときは、さりげなく観察することにしている。ネタになるかもしれないからだ。こっそり観察するなど悪趣味だ、と言われるかもしれないが、なあに、私だっていつどんなところで妙な人と思われて観察されていないとも限らない。お互い様である。

 その日も、私が乗っている電車に妙な人が乗り込んできた。若い女性、高価そうな服を着てさりげなく気品を漂わせている。いわゆる令嬢である。四国には八十八人の令嬢が住むと言われているが、そのうちの一人だろうか。
 まあそれはともかく、その女性がハンカチで口を押さえながら乗り込んできたのだ。そうか風邪が流行っているからなあと思ったが、どうやら風邪のせいではなかったようだ。その女性、ハンカチでつり革をつまむとバッグから小さな除菌スプレーを取り出した。それをつり革にまんべんなく吹き付けると、ハンカチで丁寧にぬぐう。そのハンカチを小型のビニール袋に入れてバッグにしまい別のハンカチを取り出し、そのハンカチごしにつり革につかまったのだ。
 そこまでしなければつり革につかまることもできないとは。ううむ、これがいま話題の鉄壁症というやつか。ふふふっ、世界一のゴールキーパーとはこのオレのことよ。まだ誰にもゴールを許したことはないんだぜ。こいっ、翼!
 ……いや違う、潔癖症だった。つり革につかまれない、ドアのノブを握れない、券売機のボタンが押せない、公衆電話がかけられない。他人の手が触れたものに触れることができないのだ。それほどまでに雑菌を怖れているようである。だから、いちいち除菌スプレーを使って除菌しなければならないのだ。しかしそれでは日常生活にも支障をきたすだろう。まったくご苦労なことである。私だったら、そんなことはほとんど気にならないぞ。誰が使ったかわからない物、つり革だってノブだってコンドームだって気にせずに使っている。
 そんなことを考えながら見ていると、その女性はつり革から手を離した。どうやら降りる駅が近づいてきたようだ。そのまま降りるのかと思いきや、またバッグから小さなスプレーを取り出すとつり革に吹き付けている。使ったあとにスプレーして何の意味があるのか、と思ってよく見ると、それは消臭スプレーだった。
 ううむこれは……私の推理によると、どうやら自分のにおいがつり革に付くのを怖れているようだ。まあ何かしらこのつり革、変なにおいがするわ。誰が使ったのかしら。ほらあの人よ。このにおいはあの人のにおいなのね。やあねえ。ひそひそ。そんなことを言われるのを怖れているのだろう。それはちょっと考えすぎのような気もするが、最近はこういう「自分のにおいが気になる人」も増えてきているようだ。自分が使ったつり革、ドアのノブ、券売機、公衆電話。そのまま次の人に触られることに耐えられないのでいちいち消臭しなければならないのだ。しかしそれでは日常生活にも支障をきたすだろう。まったくご苦労なことである。私だったら、そんなことはほとんど気にならないぞ。つり革だってノブだってコンドームだって何もせずに次の人に回している。
 などと考えているうちにその女性は降りていった。

 再びその女性を見たのは数日後のことだ。
 電車に乗り込んできて、同じようにつり革の前に立つ。しかしバッグの中から取り出したのは除菌スプレーではなく、つり革だった。マイつり革だ。マイつり革を渡し棒に引っかけて、それにつかまっている。よく見るとそのマイつり革、デザインもなかなか凝っていて、ルイ・ヴィトンのマークが付いていた。上品な服装に合った、しゃれたつり革である。そうか、その手があったか。
 ううむ、私もマイコンドームを使おうかなあ。




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