第27回   アンデルセン童話の欺瞞 1996.10.13


 唐突ですが、漁船の名前といえば、「第一○○丸」とか「第二××丸」とかいうのが多いようです。
 そこで私も、ひとつ考えてみました。「第三惑星丸」ってのは、かっこいいと思うのですが、どうでしょう? ダメ?
 うーん、それじゃ、「第三帝国丸」ってのは?<ヤバいって。

 というしょーもないマクラとは何の関係もなく、本日のネタはこれ。

 アンデルセンはデンマークの有名な童話作家である。
 実は、アンデルセンの童話については、どことなくいやな感じ、というか、不快感を感じていた。もちろん、子供の頃に感じていたわけではなく、高校生か大学生の頃、岩波文庫版(たぶん)を読んで以来のことである。で、最近になって、やっとそのいやな感じの正体がわかってきたようだ。
 アンデルセンには、『裸の王様』のような傑作もあるにはあるが、代表作である『みにくいアヒルの子』をはじめ、『かたわもの』『親指姫』などといった作品に、そのいやな感じが如実にあらわれているようだ。

 アンデルセンの作品に一貫して流れるもの、それは、「醜い者には汚い心、美しい者には美しい心」という差別思想と、王様を賛美し、貧乏人は現状に甘んじるのをよしとする典型的反動思想である。
 そして、この醜い・美しいの判断基準は、俗物的な常識に従ったアンデルセンの基準に他ならない。アヒルやカエルやモグラは醜くて、ツバメや白鳥やチョウチョは美しく、従って心の美醜もそのとおり、ということである。
 更に許せないのは、アヒルは生涯アヒルであることの悲しみを、まったく理解していないことである。アヒルの中の変種だと思ったら白鳥だった、ああよかった、本当にアヒルじゃなくて。乞食だと思ったら王子だった、ああよかった、本当に乞食じゃなくて。といった「おめでたい話」が充満している。現実に乞食である者、現実に醜い者、とうてい回復し得ない身障者の心を、アンデルセンはまったく理解していない。彼らに「あきらめろ、夢でも見ていろ」と残酷に叫んでいるのが、アンデルセンの作品群ではないだろうか。

 『親指姫』は、アンデルセンの最初の創作童話のひとつだし、『かたわもの』は、アンデルセン本人の弁によれば「もっとも成功した作品の一編」ということである。注目すべきは、純粋にアンデルセンの創作であるこの二編にもっとも典型的に欠陥があらわれている、という点だろう。そして『裸の王様』のような傑作は、実はスペイン起源のもので、着想全体が13世紀のスペインの寓話作家に負っている。こういった事実を見れば、ますますアンデルセンの本性がわかるだろう。

 ‥‥なんだか「アンデルセンに鉄槌」になってしまったが、とにかく、子供にアンデルセンの童話など読ませてはいけない。読ませるならやはり、グリム童話だろう。それと、筒井康隆『三丁目が戦争です』と(こらこら)。

追記。
 上田完さんから反論をいただきました。ありがとうございます。しかし、二人とも「うえだ」で、ややこしいな‥‥。
 その人物の業績というものは、現在の価値基準で、ではなく、当時の社会情勢によって判断されるべき、という意見も、当然あると思います。でも、私が、アンデルセンの童話を読んで、上記のような感想を持ったのは確かなのです。やはり、私は、「当時の社会情勢」から判断すれば「仕方のない」ことだとは言え、アンデルセンや魔女狩りや十字軍を容認することはできません。
 そう、それでいいのだと思います。百人いれば百様の価値判断があるのは当然ですし、他者と完全に意見が一致する事などあり得ないわけですから。(というふうに、相対化してはまずいですか?)
 ‥‥こういう「真剣な反論」をいただいたのははじめてでした。今後とも「暴論」やら「極論」を書いていくと思いますが、また反論をお願いします。(‥‥結構喜んでいるのかも知れません、私)

 しかし、『赤頭巾』の本当の結末は「狼に食べられて終わり」のはずだったのに、「狼の腹を裂いて救出される」というハッピーエンドに改変したのは誰なんでしょうね?

2000.5.17追記
 この文章について、本田勝一『殺される側の論理』所収の『アンデルセンの不安と恐怖』にそっくりだ、との指摘をいただきました。確かにその文章を「参考」にして書きましたが、「参考にした」では済まないほどよく似ています。弁解の余地はありません。申し訳ありませんでした。
 この文章はこのまま残しておき、反省材料といたします。


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