さて今日は、昨日に引き続き、『日記物語』のサブテキストシリーズその2(いつシリーズになった?)として、「メタファー論(入門編)」です。
しかし、読み直してみると、相変わらずほとんど参考になりません。申し訳ない。
「目玉焼き」がメタファーであると言えば、驚くかも知れない。もちろん目玉焼きそのものではなく、「目玉焼き」という表現の方である。普段何気なく使っている言葉だが、よく見ると「目玉」という生々しい表現が入っているのに気付く。「目玉」が文字通りであればホラー映画の世界である。この「目玉」はメタファーでなければならない。
「あんパン」や「ジャムパン」は、味も言葉の構成も単純である。「あん」と「パン」、「ジャム」と「パン」の合成に過ぎない。ところが、同じように単純な味の「メロンパン」は言葉ではひねりをきかせている。「メロン」はメタファーである。
メタファーとは「見立て」と考えるとわかりやすい。試しに「目玉焼き」を『広辞苑』で調べてみると(こんなことのためにこの辞典を使う者も少ないと思うが)、「卵をかき混ぜずにフライパンで焼いたもの。黄身を目玉に見立てて言う」という説明に出会う。同様に、メロンパンは「メロン」に「見立て」られているのだ。
「見立て」をさらに言い換えれば、「を見る」に対する「と見る」ものの見方である。AをBと見るとき、Bにメタファーが生まれる。
Aという対象に、いつも都合よくAという文字通りの名称があれば、Bは贅沢品かもしれない。しかし、現実には、対象Aにそれを文字通りに表現する名称Aが欠けていることがしばしばある。このとき、対象Aを表現するメタファーBは必須のものとなる。「目玉焼き」や「メロンパン」には、もともと文字通りの表現はなかったのである。また、抽象的な思考対象(たとえば、愛や人生について)何かを語ろうとするなら、メタファーの登場は必然であろう。
「目玉焼き」や「メロンパン」などのメタファーは、特殊な表現法だ、と考える人がいるかも知れない。そこで、「普通の文章」を例にあげて、いかに普段使用している表現のうちにメタファーが潜んでいるかを見てみよう。他人の文章だと色々と問題があるので、私の文章をサンプルにする。「ぽたぽた通信」の、『第15回 フロイトに鉄槌』である(え?すでに「普通の文章」じゃないって?うーむ、それはご容赦を)
フロイトの理論によれば、我々の精神は三つの意識状態(意識、前意識、無意識)が複雑に絡み合って*1構成されているが、この中で重要な役割を果たしている*2のが無意識である。人間の無意識には抑圧された欲望や衝動が閉じこめられて*3いて、それが様々な精神疾患の原因になっているという。 精神分析医は、ソファに横たわったりしてくつろいでいる患者に自由連想させて聞き出した言葉や、夢の内容、日常生活での些細な言い間違いなどを手がかり*4に、それを象徴的に解釈することによって患者の無意識の世界*5にメスを入れる*6。 しかし、まさにこの方法論こそが問題なのだ。なぜなら、患者自身が分析結果を否定しても、分析医の解釈が間違っていたことにはならないからである。 もう一つの例。 たとえば女性の患者が、男性が部屋のドアから強引に入ってきた夢を見たとしよう。フロイト理論ではドアはヴァギナを象徴しているため、分析医は、「この女性には男性からレイプされたいという抑圧された願望がある」と解釈する。もちろん、患者にそれを尋ねてみても否定するだろう。このような願望こそ、もっとも深く*7抑圧されているため、意識上にはのぼってこない*8ことになっているからである。
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この例からもわかるとおり、我々は、それとは意識しないで、毎日膨大な量のメタファーを使用しているのだ。まさに、メタメタにメタファー。
(そう言えば、『フロイトに鉄槌』の「鉄槌」もメタファーだな)