最近会社であった妙な会話シリーズその1。
A「なあ、パンとかケーキとか、総称して何て言うんだっけ?」
B「パンケーキ!」
C「パンが食べられないなら、ケーキを食べればいいのに!」
A「‥‥あのなあ。Bはまだいいとしても、C、お前は一体何やねん?」
もうおわかりだろうが、Cが私である。
で、結局正解はわからずじまい。「焼き菓子類」でいいのだろうか?
さて、今日のネタは‥‥酔った勢いで、私らしからぬテーマに挑戦してみよう。朝鮮半島の挑戦。(←これは単なるダジャレなので深読みしないように)
「死」の判断基準の話である。
「脳死」を人の死と判断すべきかどうか、議論になっているようである。「脳死」か「心臓死」か、法律・倫理学・医学・哲学・宗教まで巻き込んで、議論が沸騰しているようだ。沸騰などしていない、という意見もありそうだが、話の都合上、沸騰していることにしておく。
だが、そのような「死の基準」を一律に定めることはできないだろう。世の中には様々な考え方をする人がいて、万人が納得する基準を定めることなど出来ないからだ。
では、どうするか?
答は簡単である。「自己決定の原則」に従えばいいのだ。すなわち、自分の死の基準は自分で決める、ということだ。各人が「私の死は、脳死で判断してくれ」「私の死は、心臓死で判断してくれ」と、あらかじめ意志を明確にしておけばいい。これで問題は、基本的には解決する。
「基本的には」と書いたのは、子供など、自己決定するだけの判断力を備えていない者をどうするか、という問題が残っているからだ。だが、これについては、「意志が明確でない場合は、心臓死を基準とする」という原則で対応できるだろう。
そして、臓器移植問題について。
ここではやはり、「死の二重基準は許されない」という方針を採用すべきであろう。
どういうことかというと、「自分の死を心臓死で判断してくれ、と宣言した者は、脳死状態の者から臓器移植を受けることはできない」ということである。これは当然だろう。自分の死は心臓死、他人の死は脳死、などという虫のいい考え方は通用しない。そんな図々しい希望を受け入れることはできないのだ。
脳死状態の者から臓器移植を受けられるのは、自らも脳死を判断基準として受け入れた者のみ。やはり、これが正しい。
と、ここまで書いたところで、自分の場合はどうだろう? と考えた。
そう、私なら、「脳死」を死の基準として選ぶだろう。
これは何も、「他人からの臓器移植を受けたい」とか「他人に臓器を提供したい」という理由からではない。
私が私であるためには、やはり、私という自己が確認できる状態が必要である。脳が死んでしまえば、もはやそこにあるのは私ではない。ただの、肉の塊である。そんなものは、どう扱われようが気にしない。
私‥‥それはやはり「私の思考」に依存して存在するものだから。
‥‥やはり、酔っているようである。それでは、また。