第44回   死の基準 1996.11.1


 最近会社であった妙な会話シリーズその1。
 A「なあ、パンとかケーキとか、総称して何て言うんだっけ?」
 B「パンケーキ!」
 C「パンが食べられないなら、ケーキを食べればいいのに!」
 A「‥‥あのなあ。Bはまだいいとしても、C、お前は一体何やねん?」
 もうおわかりだろうが、Cが私である。
 で、結局正解はわからずじまい。「焼き菓子類」でいいのだろうか?

 さて、今日のネタは‥‥酔った勢いで、私らしからぬテーマに挑戦してみよう。朝鮮半島の挑戦。(←これは単なるダジャレなので深読みしないように)

 「死」の判断基準の話である。
 「脳死」を人の死と判断すべきかどうか、議論になっているようである。「脳死」か「心臓死」か、法律・倫理学・医学・哲学・宗教まで巻き込んで、議論が沸騰しているようだ。沸騰などしていない、という意見もありそうだが、話の都合上、沸騰していることにしておく。
 だが、そのような「死の基準」を一律に定めることはできないだろう。世の中には様々な考え方をする人がいて、万人が納得する基準を定めることなど出来ないからだ。

 では、どうするか?

 答は簡単である。「自己決定の原則」に従えばいいのだ。すなわち、自分の死の基準は自分で決める、ということだ。各人が「私の死は、脳死で判断してくれ」「私の死は、心臓死で判断してくれ」と、あらかじめ意志を明確にしておけばいい。これで問題は、基本的には解決する。
 「基本的には」と書いたのは、子供など、自己決定するだけの判断力を備えていない者をどうするか、という問題が残っているからだ。だが、これについては、「意志が明確でない場合は、心臓死を基準とする」という原則で対応できるだろう。

 そして、臓器移植問題について。
 ここではやはり、「死の二重基準は許されない」という方針を採用すべきであろう。
 どういうことかというと、「自分の死を心臓死で判断してくれ、と宣言した者は、脳死状態の者から臓器移植を受けることはできない」ということである。これは当然だろう。自分の死は心臓死、他人の死は脳死、などという虫のいい考え方は通用しない。そんな図々しい希望を受け入れることはできないのだ。
 脳死状態の者から臓器移植を受けられるのは、自らも脳死を判断基準として受け入れた者のみ。やはり、これが正しい。

 と、ここまで書いたところで、自分の場合はどうだろう? と考えた。
 そう、私なら、「脳死」を死の基準として選ぶだろう。
 これは何も、「他人からの臓器移植を受けたい」とか「他人に臓器を提供したい」という理由からではない。
 私が私であるためには、やはり、私という自己が確認できる状態が必要である。脳が死んでしまえば、もはやそこにあるのは私ではない。ただの、肉の塊である。そんなものは、どう扱われようが気にしない。
 私‥‥それはやはり「私の思考」に依存して存在するものだから。

 ‥‥やはり、酔っているようである。それでは、また。


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