第104回   来たの、国から(後編) 1997.1.16


 そして、ある雨の日の朝。私たちは、関所のような谷を越えた。関越え、能登に、朝だ雨‥‥そんなことを考えながら、私たちがたどり着いたところ、それは山中の禅寺だった。

 私はやむなく、その禅寺‥‥明慧寺に助けを求めることにした。韓国人だとバレるかもしれないが、仕方がない。日本語は父に習って一応話せるようになっていたが、発音がどうもむずかしかったのだ。アクセント身につかず、というやつである。
 山門で声をかけると、一人の僧侶が出てきた。私は、片言の日本語で事情を説明した。韓国人だということは隠したが、僧侶はどうやら気付いたらしい。しかし、何も問わずに私と妹を寺に入れてくれた。

 その僧侶には、医学の心得もあったらしい。妹を診察すると、即座に破傷風だと診断した。ペニシリンで治るという。苦しいときのカビ頼み、というわけだ。
 その僧侶は、妹に注射をした。妹は痛がって、僧侶の手にかみついた。歯の跡が残ってしまったが、申し訳ないことをした。
 薬が効いたのか、妹は眠ってしまった。そして私も、疲れがたまっていたのだろう、日が暮れる前に眠りにおちた。‥‥そういえば、あの僧侶に名前を聞くのを忘れた‥‥。

 翌日の朝。
 私と妹は、昨日歯の跡をつけてしまった僧侶を探した。ろくに礼も言っていなかったからだ。しかし、寺中を探しても見つからない。歯跡の坊主が出てこない、というわけだ。他の僧侶に聞くと、昨日は休日だから寺にいたが、今日は街に降りて托鉢をしているという。平日は托鉢だ!

 そして私たちは、貫首の勧めにより、しばらく明慧寺に世話になることにした。ついでに、禅についても教えを受けることにした。私はともかく、妹は幼すぎるのではないか、と思ったが、やはり、禅は急げ、ということなのだろう。

 禅には、公案と言うものがある。演繹帰納で論理的に導き出されるような明確な解答が存在しない問題に対していかに即答するかという修行‥‥というものらしいが、私はいまだによくわからない。いわゆる禅問答である。
 その公案のうち、基本中の基本と呼ばれるのが『狗子仏性』というものだ。実をいうと、私が記憶しているのはこの公案だけなのだ。せっかくだから紹介しておこう。

 その昔、ある僧が師匠に尋ねた。
「犬に仏性はあるのでしょうか?」
「ある」
「それでは、なぜ犬は畜生の姿でいるのですか?」
「仏性があると知りつつ悪行をなす業障ゆえだ」
 別の僧が、もう一度同じことを聞いた。
「犬に仏性はあるのでしょうか?」
「ない」
「なぜないのですか?」
「仏性があることを知らぬからだ。無明の闇の中にあるゆえだ」

 わかるだろうか? 私にはさっぱりわからない。だから、はじめから考えることを放棄していたのだが、すると、貫首に笑われてしまった。考えぬ、ゆえに笑われ、ということだ。
 公案はわからなかったものの、明慧寺での暮らしはそこそこのものだった。曼陀羅でもない、というやつである。

 そしてついに、明慧寺を離れるときがやってきた。私と妹を引き取って育てたい、という人を貫首が探してくれたのだ。
 妹は、明慧寺の人々と別れることは悲しがったものの、禅についてはついに興味を持たないままだった。妹は、儒教を信じていたのだ。儒教にしてねとあの子は言った。
 私は、わからないなりに禅に魅かれていた。だから、いずれそのうち結婚式をあげるときは、ぜひ仏前結婚で‥‥と心に決めていた。結婚するって本堂ですか、ということである。


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