第135回   知床旅情 1997.5.19


 知床へ来た。
 なぜかというと、甘夏の花が咲く季節になったからだ。甘夏の咲く頃には、やはり知床の岬へ来なければならないだろう。知床に来るのは初めてだが、何事も経験である。昔から、甘夏の経験と言うではないか。そう、誘惑の甘い花〜、というやつだ。

 背後は、見渡すばかりの大平原。遠くに、シレトコシマウマの群が見える。池では、シレトコゾウの親子が水を飲んでいた。
 そして目の前は海。上空にはオーロラが輝き、はるか沖合いでは密漁船とロシアの軍艦が銃撃戦を繰り広げ、その上には巨大なオゾンホールが見えた。実にのどかな光景である。

 ふと浜を見ると、数人の男たちが何かをとりまくように集まっている。その輪の中心には、巨大な生物が横たわっていた。ときどき動いているところを見ると、まだ生きているようだ。ひょっとして、あれが伝説のクラーケンだろうか? 私は、気付かれないように近づいていった。

 男たちは、なにやらひそひそと話し合っている。
「さて、こいつ、どう料理するっしょ」
「やっぱり、鍋っしょ」
 なんと言うことだ。男たちは、この巨大な生物を食べるつもりらしい。生け捕りにしてテレビ局にでも持ち込めば、一気に有名に‥‥いや、助けたお礼に竜宮城に‥‥いやいや、自然保護の観点からも、断じて助けなければならない。私は、男たちに声をかけた。
「おい、お前たち! そいつを食わせるわけにはいかないぞ!」
 男たちは驚いたようだ。あわてて私から遠ざかり、ひとかたまりになってまたひそひそと話し合っている。やがて、そのうちの一人が私の方に近づいてきた。
「いや、食べようなどとは思っていません。私たちは獣医です。どうやら怪我をしているようなので、治療の相談をしていたところです」
 なるほど、そうだったのか。疑って悪かった。
 男の一人が、浜から道路に上がっていった。エンジンの音がして、トラックが降りてくる。そうか、このトラックで病院まで運ぶわけか。

 私はあらためて、その生物を見た。カニである。しかし、こんな巨大なカニは見たことがないし、私の知識では種類まではわからなかった。怪我をしているから毛ガニだろうか。
 自信がないので、私は男たちに聞いてみることにした。獣医なら、カニの種類くらい知っているだろう。
「あのー、すいません、これはなんていうカニで‥‥うわっ!」
 トラックが私の眼前をかすめていった。なんて乱暴な運転だ。
 それを見ていた男たちが声をそろえて言った。

獣医一同「毛ガニっしょ」


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