第152回   ふたりでお酒を 1997.9.8


 いつ頃から言われているのかは知らないが、縁起のいい夢、というものがある。しかも、縁起のよさには順位が付いているのだ。
 私の記憶が確かなら、一番縁起がいいのは姫の夢で、二番は太郎の夢である。いや、ひょっとしたら、一番はカステラの夢で二番は電話の夢だったかもしれない。
 ……そんな埒もないことを考えたのは、昨夜、彼女の夢を見たからだ。大学時代につきあっていた彼女の夢を。
 当たり前だが、その頃の私は若かった。そして彼女も。今にして思えば、実にくだらない原因で別れてしまったものだ。しかし、当時の私たちにとってその出来事は、二人の仲を破壊するほど大きな楔だったのだ。それは、こんな出来事である……。

 彼女の名は千佳。私とは、同じ学科の同期生だった。30人中3人しかいかなった女性のうちの一人だ。実家は秋田で農家をしていて、大学へは下宿から通っていた。小柄で色白の、ショートカットが似合う女の子だった。
 千佳とつきあいはじめたのは、入学してすぐのことだ。私と千佳は、一緒に授業に出、課題をこなし、試験を受けた。二人の関係は順調に見えた……が、破局の陰はすぐ近くまで忍び寄っていたのだ。

 その日は、電磁気学の試験だった。私は、少し早く教室へ向かった。
 千佳はすでに来ていた。いつものように、隣りに座る。千佳は心なしか、沈んでいるようだった。聞くと、実家の方では日照りが続いていて、農作物の出来がよくないらしい。米や麦はおろか、名産品で旱魃には強いはずの小芋さえ取れない、という。つまり、秋田というのに〜、小芋できな〜い、ということだ。だからメランコリーだったのか。
 程なくして、試験が始まった。勉強はしてきたはずだが、かなり難しい。特に3問目、何かの公式を当てはめれば簡単に解けるはずなのだが、その公式がどうしても思い出せない。悩んでいると、隣から消しゴムが転がってきた。小さな字で何か書いてある。千佳が助けを求めてきたようだ。実家のことが気がかりで勉強できなかったのだろう。
「3問目。フラミンゴの法則って、どんなんだっけ?」
 それを読んで思い出した。ここは、フラミンゴの左足の法則を応用すればいいのだ。理系の人なら知っているだろうが、フラミンゴの左足の法則は、電流・磁力線・運動の向きを示すもので、頭が電流、右羽根が磁力線、左足が運動方向である。
 助かった。千佳のおかげで、なんとか解けそうである。私は、消しゴムにフラミンゴの左足の法則を書くと、千佳の方に転がした。

 しかし、試験終了後に教科書を確認した私は愕然とした。間違っていたのだ。この問題は、左足の法則ではなく右足の法則を使わねば正解は出ない。私はこのことを、おそるおそる千佳に告げた。千佳は、わずかに笑みを浮かべ、巻き添えにされたのね、と言った。そう、巻き添えなら問題はなかったのだが……。
 数日後、試験結果が発表された。私が「可」、千佳は「不可」。並んで掲示板を見ていた私たちの間に、冷ややかな空気が流れた。千佳がつぶやく。
「電磁気は、赤点。わたしが馬鹿よ、……か」
 3問目は仲良く間違えたはずだから、他の問題で差が付いたのだろう。やはり、実家が心配で十分勉強ができなかったようだ。仕方ないか。
 だが、千佳の視線は冷たい。非難の色が見える。まずい。私がわざと間違いを教えたと思っているようだ。この誤解は解かなければ。

 夕方、私は千佳を飲みに誘った。相変わらず視線は冷たかったが、うなずいてついてくる。
 場所は大学近くの居酒屋だ。平日、まだ陽は出ているというのにけっこう混んでいる。私と千佳は、壁際の席を確保した。
 私は、必死に言い訳をした。しかし、千佳は聞く耳を持たない。私を非難するばかりである。わざとじゃないと言っているのに、どうしてわかってくれないのだ?
 だめだ。もう耐えられない。そんなに私が信じられないなら、もう二人の仲も終わりだ……その言葉に、千佳は黙ってうなずいた。
 こうして、私と千佳の関係は終わりを告げた。その時、店内に流れていた有線放送の曲は、今でも覚えている。古い流行歌だったが、それはまさに、その場にふさわしい、別れの曲だった。
「フラミンゴの足で〜、別れましょうね〜」


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