第165回   手首の傷  1998.1.27




 目が覚めたのはベッドの上だった。
 暗い。
 かすかに頭痛がする。
 頭を振って上半身を起こす。
 ここは……そう、私の家の寝室らしい。
 立上がろうとして床を見る。
 そこに、眞弓が倒れていた。
 あわてて抱き起こそうとして肌に触れる。
 冷たい。
 眞弓は息絶えていた。

 私と眞弓は恋人同士だった。いや、夫婦だった……のか?
 私と眞弓はこの家で暮らしていた。……いつから?
 記憶がはっきりしない。頭に霧がかかったようだ。
 ただひとつ確かなのは、私と眞弓が愛し合っていたことだけだ。眞弓はかけがえのない、私の半身だった。
 その眞弓が、私の目の前で、冷たい骸になっている。
 涙が溢れてきた。
 私は声をあげて泣いた。

 いつまでもこうしているわけにもいかない。私は眞弓を抱き上げると、ベッドに寝かせた。
 ふと眞弓の左手首を見る。傷があった。
 床にも、かすかに血の跡がある。
 眞弓は、自ら命を絶ったのか? ……しかし、なぜ? 理由が思いつかない……いや、思い出せない。
 眞弓。生きていてほしかった。
 いや。……生き返らせてみせる。

 すでに正常な判断力を失っているのかもしれない。私はふらふらと、書斎へと歩いていった。
 書斎には、あの本があるはずだ。死者をよみがえらせる方法を記した魔道書が。なぜかその魔道書の記憶ははっきりしていた。
 その方法に、本当に効果があるのかは定かではない。しかし、一縷の望みでもあれば、それに賭ける気になっていた。

 魔道書はただ一冊、書斎の机の上に置いてあった。まるで私が来るのを待っていたかのように。
 ページをめくり、死者をよみがえらせる方法を探す。
 あった。私はむさぼるようにに読んだ。薬……呪文……意外に簡単だ。特殊なものは必要ない……あるものを除いては。しかし、その「あるもの」は……。
 私は決心した。
 眞弓をよみがえらせる。

 準備は整った。私は復活の儀式を始めた。
 最後に必要な「あるもの」、それは血……そう、人間の血だった。失血死するほど大量の血が必要なのだ。
 私は、自分の血を使うつもりだった。いくら眞弓のためとは言え、他人を殺すわけにはいかない。自分の命を犠牲にして、眞弓をよみがえらせるのだ。
 魔道書の記述を思い出す。左手首を剃刀で切り、流れ出す血を使うべし。
 右手に持った剃刀を左手首にあてようとして、私は驚いた。そこにはすでに傷があったのだ。剃刀で切られたような傷。一本や二本ではない。多数の傷が錯綜している。
 あわてて、眞弓の左手首を確認する。やはりそこにも、多数の傷があった。

 そうか……眞弓も同じことを考えていたのか。
 私は、眞弓に優しく口づけをした。
 剃刀を手首に走らせる。


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