第176回 日記の書き方 1998.4.3
帰宅して、パソコンの前に座る。日記を書くためだ。しかし、書くことが何もない。
そりゃそうだ。いつもどおり会社に行き、いつもどおり仕事をして、いつもどおり帰宅する。あまりにも平凡な日常。日記に書くネタなど、あるわけがない。
ではどうするか? 決まっている。話を作るのである。なあに、みんなやっていることだ。後ろめたいことなど、何もない。
しかし、完全にでっち上げるのも気がひけるので、今日の出来事の中からネタを探し、それを脚色して書くことにしよう。今日の出来事……そういえば、帰宅するとき、道に猫がいたな。猫、猫、猫……。
猫が、家の庭にふんをして困っている、という話にしようか。実際は庭などないが、なあに、黙っていればわかりゃしない。で、この猫をつかまえるために、庭に罠を仕掛けたことにしよう。
そして、夜が来た。
私は、照明を消した部屋の中で、息を殺して待つ。
ほどなくして聞こえてくるかすかな物音。あいつだ。あの猫が来たのだ。
バチン!という金属のはじける音。そして悲鳴。成功だ。私は部屋の照明をつけ、窓を開ける。
小さなキジ猫が、右後ろ足を罠に挟まれてもがいている。さて、こいつをどうやって始末してやろうか。薄笑いを浮かべながら近づいていくと、その猫が言った。
「お願いします。助けてください」
なんと。言葉をしゃべれる猫だったとは。
「助けてくれたら、必ずお礼をします。お願いします」
そこまで頼まれては仕方がない。決してお礼に目がくらんだわけではないが、私は罠をはずしてやった。猫は、何度も頭を下げながら去っていった。
そして、次の日の夜。
ん? 日記なのに、「次の日の夜」はマズいか? ……まあ、気にしないでいこう。
そして、次の日の夜。
チャイムを鳴らす者がいる。こんな夜更けに誰だ? と思って出てみると、美しい女性が立っていた。知らない顔だ。
「えーと、どちらさまですか?」
「私は、昨日助けてもらった猫です。あなたのお嫁さんになりに来ました」
そしてその日から、二人の暮らしが始まった。
すでに日記じゃなくなっているような気がするが、気にしない気にしない。
私の妻は働き者だった。毎日、奥の間にこもってはなにやら作って、完成した物を売りに行っている。けっこう高く売れるらしい。決して見てはいけません、との言葉が気にはなったが、私は遊んで暮らせる身分になった。
この幸せが永遠に続くものだと思っていたのだが……。
ある日。奥の間から何か大きなものが倒れる音がした。私は奥の間に駆け付けた。ふすまを開けると、まず私の目に入ったのは数棹の三味線だった。
そうか、妻は三味線を作っていたのか。
そして床を見る。妻が倒れていた。あわてて駆け寄って抱き起こす。妻は、息も絶え絶えの状態だった。
「あなた、すいません、私はここまでです。私の作れる三味線は、これが最後……。さようなら、私は幸せでした……」
そして妻は、私の腕の中で息を引き取った。
いかんいかん。どう見ても作り話ではないか。もう少し現実的な話を考えなければ。
庭に猫がふんをして困っている、というところまではいいんだよな。で、これにどう対処するかというと……やっぱり、猫にはペットボトルだな。よし、これでいこう。
そして、夜が来た。
私は、照明を消した部屋の中で、息を殺して待つ。
準備は万端だ。昼間、隣の奥さんから「猫にはペットボトルがよく効くわよ」との情報を入手したのだ。
今、私の手の中にはウーロン茶のペットボトルがある。中身は水だ。
注ぎ口のところを持って、持ち上げる。ずっしりと重い。心強い重さだ。
待っていろよ、猫め。このペットボトルで、お前の頭をかち割ってやるからな。
よし、なかなかいいぞ。この調子だ。
しかし、オチを考えていなかった。日記にオチは不要かもしれないが、やはり、ないよりはあった方がいいだろう。猫をテーマに、何かダジャレを考えねば。
うちの庭は狭いからなあ。まるで猫の額だ。猫の額……猫の死体。これか?
私はさっそく、データベースソフトを立上げる。ダジャレネタはすべて、このデータベースで管理をしているのだ。「猫」で検索をかけると……いかん。このネタは前に使っている。
猫に会ったら、あいさつしなくては。猫にこんばんわ。これも使った。
ああ、忙しい忙しい。猫の毛も刈りたいくらいだ。これも使った。
つかまえたら、皮をはいで三味線にしてやるぞ。でも、血がたくさん出そうだなあ。けっこう血だらけ、猫はいだら。これも使った。
困った。猫ネタのストックがない。新ネタを考えねば。パソコンの横に常備している『故事ことわざ辞典』(宮腰賢編、旺文社)を開く。「ね」の項を見る。
猫かぶり……猫撫で声……猫に鰹節……猫の魚辞退……猫の前の鼠……猫の目のよう……猫は三年の恩を三日で忘れる……猫ばば……猫も杓子も……猫もまたいで通る……。
ダメだ。使えそうなのがない。だいたい、これらは頭に「猫」のつく故事ことわざばかりだ。下に「猫」のつくのはないのか? こういうときに『逆引き故事ことわざ辞典』でもあれば……。
しかたない。こうなれば、自分のとぼしい記憶の中からオチを探すしかないだろう。……………………あった。これだ。
しかし、いくら待ってもその夜は猫は来なかった。そして、冷え込んだせいか、どうやら風邪をひいてしまったようだ。
朝が来て、私はペットボトルを隣の奥さんに返しに行った。そう、このペットボトルは借りてきたものだったのだ。
熱のせいか徹夜のせいか、頭がぼーっとしている。今日は会社を休んでおとなしく寝ていよう。
借りてきた。寝込みたい。
すいません、風邪気味なので、今日はこれくらいで勘弁してください。
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