第177回   暮らしの中の妖怪たち  1998.4.13





 目が覚めたら九時半をまわっていた。
 あわてて飛び起きる。まずい。遅刻だ。
 どうして寝過ごしてしまったのか。どうやら目覚まし時計が鳴らなかったらしい。手に取ってみたが、動いていない。わかっている。あいつの仕業だ。そう、妖怪目覚まし壊しである。
 壊れた目覚まし時計をぼんやり眺めている場合ではなかった。さっさと会社へ行かねば。洗面所へ駆け込んで歯を磨こうとしたが、歯ブラシがない。わかっている。妖怪歯ブラシ隠しの仕業だ。
 歯はあきらめて顔を洗おうとした。給湯器のスイッチを入れて蛇口をひねったがお湯が出ない。冷たい水だ。これもわかっている。妖怪水出しの仕業だ。
 顔を洗うのもあきらめて着替え始める。靴下をはこうとすると、親指のところに穴があいている。またか。これは、妖怪靴下かじりの仕業だ。仕方がない、今日のところはこの靴下で我慢しよう。
 なんとか着替えも終え、あわてて靴をはこうとしたら向こうずねを柱に思いきりぶつけてしまった。いてて。妖怪すねぶつけの仕業だ。いてて。
 痛がっている場合ではない。鞄をかかえて駅へ走った。

 妖怪には、動作がそのまま名前になっているものが多い。小豆を洗う妖怪なら小豆洗い。枕をひっくり返す妖怪なら枕返し。天井から下がってくる妖怪なら天井下がり。垢を舐める妖怪なら垢舐め。なぜ、このような名前が多いのか。
 朝起きたら、枕がひっくり返っていた。これはびっくりする。一体なぜ、こんな現象が起きるのか。謎だ。怖い。恐ろしい。謎のまま放っておくのは耐えられないので、なんとか説明しようとする。そうだ、これは妖怪の仕業だ。妖怪枕返しが、枕をひっくり返したのだ。そう考えて安心する。なるほど、枕返しの仕業だったのか。  たとえば、ライオンがいる。ライオンという名前がなければ、それは人を襲う未知の恐ろしい怪物である。しかし、ライオンという名前を付けたとたん、それは単なる野生動物になるのだ。実際にはライオンの恐ろしさは少しも減ってはいないのだが、名前を付けることで解明できたような気になり、なんとなく安心するのだ。枕返しと同じである。
 さらに、ウサギがいる。ウサギという名前がなければ、それは人を襲う未知の……いや、ウサギは人を襲わないか。やはり、この世にはウサギなことなどないのかもしれない。

 ようやく駅に着いたが、直前で踏切につかまってしまった。妖怪遮断機降ろしの仕業だ。ホームに行ったがなかなか電車が来ない。妖怪電車遅れの仕業だ。なんとか電車に乗り、座ろうとしたが座席は子供に占領されている。こいつらは、妖怪座席わらしだ。
 会社に到着したが、やっぱり遅刻である。事情を課長に説明したが、わかってもらえない。しこたま怒られた。この課長、もしや妖怪が化けているのか。あるてい課長だ。これはちょっと難しい。

 気を取り直して仕事を始めた。さっそくメールをチェックするが、文字化けして読めないものが何通かある。わかっている。これは妖怪文字化けの仕業だ。もっとも、この妖怪の正体は、たいていの場合ビル・ゲイツなのだが。
 続いて、ワープロで資料の作成である。順調に書いていき、あと少しで終わるというとき、突然パソコンがフリーズした。なんてことだ。これは妖怪パソコンフリーズの仕業だ。この妖怪の正体もビル・ゲイツだと言われている。どうやらビル・ゲイツはぬらりひょんのような存在らしい。妖怪の総元締めだ。

 そうこうしているうちに昼休みだ。食堂に行き、とんかつ定食を食べる。しかし、とんかつが固い。妖怪とんかつ固めの仕業だ。味噌汁もぬるい。妖怪味噌汁さましの仕業だ。さらに茶碗を見ると、隣の同僚よりご飯が少ない。妖怪ご飯減らしの仕業だ。まったく、いい加減にしてほしい。会社での唯一の楽しみを邪魔するとは。

 昼から会議だということをすっかり忘れていた。妖怪会議忘れの仕業だ。仕方なく出席したが、実に退屈な会議である。妖怪退屈会議の仕業だ。おまけに会議中は禁煙で煙草も吸えない。妖怪煙草吸えずの仕業だ。眠い。妖怪眠いの仕業だ。眠った。妖怪眠ったの仕業……グウ。

 寝ているうちに会議は終わった。妖怪会議終わりの仕業だ。この妖怪にはもっと早く来てほしかった。
 会議が終わってみれば、すでに定時である。今日はどうも日が悪い。いつもより妖怪が多いような気がする。妖怪妖怪増やしの仕業だ。こいつはメタ妖怪である。
 こんな日は残業してもいいことはないだろう。早めに帰って酒でも飲んで眠ることにするか。

 このように、この世には妖怪が満ち溢れている。ちょっと注意すれば、あなたも妖怪の気配を感じることが出来るかもしれない。では、今日はこの辺で。

 今回の話にオチはない。もちろん、妖怪オチなしの仕業である。



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