第180回   おまえじゃない  1998.5.5





 その携帯電話は、座席の上にぽつんと置かれていた。
 普段の私ならそんな忘れ物など無視するのだが、なぜかその携帯電話は気になった。手に取ってみる。大きくて重い。かなり古い機種のようだ。バッテリーが切れているのだろうか、液晶の表示は消えていた。
 降りたら、駅員に届ければいいだろう。そう考えてポケットに入れる。そして……そのまま忘れてしまった。

 大阪市内の客先へ出向き、そこでの打ち合わせが終わったのは六時を過ぎていた。このまま自宅へ直帰したかったのだが、今日中に片付けなければならない仕事がまだ残っている。仕方なく会社へ戻ることにして、阪急電車の急行に乗り込んだ。
 電車を降りて、会社までの道を歩いていく。すでに日は完全に暮れ、人通りもない。
 会社の門をくぐり、ふとポケットに手をやって……思い出した。さっきの携帯電話だ。持ってきてしまった。
 まあいいか。今さら引き返すのも面倒だし、駅員に届けるのは帰り道にしよう。そう考えて階段を三階まで上る。
 三階のフロアは、異様なほど人が少なかった。この時間なら残業をしている者が多いはずなのに、十人も残っていない。すでに照明の消えているセクションもある。こんなこともあるのかと思いながらデスクに着き、パソコンの電源を入れた。すぐに仕事にとりかかる。

 しばらく仕事に没頭していると、どこからか電子音が聞こえた。携帯電話の呼び出し音のようだ。ディスプレイから目を離してあたりを見渡す。誰もいない。このフロアに残っているのは私だけのようだ。
 呼び出し音はポケットから聞こえていた。さっきの携帯電話だ。バッテリーは切れていたはず、といぶかりながら取り出す。確かに鳴っている。液晶の表示も復活していた。
 とりあえず出てみるか。私は着信ボタンを押して答えた。
「もしもし?」
 しばしの空白ののち、くぐもった男の声が聞こえた。
「……やっと見つけたぞ」
 持ち主がかけてきたのだろうか?
「あ、どうも、この携帯の持ち主の方ですか? これ、阪急電車の中で拾ったんですが」
 しかし、私の返事を無視するように、その声はさらに続けた。
「……よくも……よくもおれを大阪湾に沈めてくれたな。ずっとおまえを探していたんだ。恨みをはらしてやる。復讐してやる。いいか、待ってろよ。すぐに行くからな……」
 電話は切れた。

 ……何だ、今のは?
 私は、その携帯電話を手に持ったまましばし茫然としていた。
 そのとき。
 階段の方から、足音が聞こえてきた。濡れた靴で階段を上ってくるような、湿った足音だ。
 まさか、さっきの電話の男か? しかし、社屋にはIDカードがなければ入れないはずだが。
 足音は階段を上り終わり、廊下を歩いている。廊下からフロアへ入るドアも、IDカードを使わなければ開かない。開かないはずだ。
 しかし、ドアはあっさりと開き、男が入ってきた。筋肉質の大男だ。サングラスをかけ、派手な柄のシャツを着ている。右手に持っているのはナイフのようだ。その男の全身は、ぐっしょりと水で濡れていた。肌の色はどす黒く、生気がない。
 私は、金縛りにあったように動けなかった。
 その男はあたりを見回す。私を見つけたようだ。ゆっくりと、こちらに歩いてくる。歩くたびに靴から水があふれ出す。服からも水滴がしたたり落ちる。
 ついに、その男は私の目の前にやってきた。右手に持ったナイフを振り上げる。しかし、その手が止まった。なぜか、ためらっているようだ。
 男はサングラスをはずして、私の顔をのぞき込む。その死んだ魚のような目はどろんと濁って焦点が合っていない。腐ったようなにおいが漂ってきた。私は思わず顔をそらし目をつぶってしまった。
「……違う」
 その男の声が聞こえる。
「おまえじゃない」

 どれくらいの時間がたっただろう、おそるおそる目を開けると、その男は消えていた。周囲を見回したが誰もいない。
 ドアから私のデスクまでの床が、水でびっしょりと濡れていた。かすかに海のにおいがする。今の出来事が幻覚でなかった証拠だ。
 すでに仕事をする気は失せていた。私は、パソコンの電源もそのままに、会社を飛び出して駅へと走った。

 改札口を通ろうとして驚いた。私の手には、まだ例の携帯電話が握られていたのだ。あわてて離そうとするが、指がこわばったようになっていてなかなか離れない。ホームからは終電のアナウンスが聞こえる。やむを得ず、携帯電話を持ったままホームに降りた。
 なんとか終電には間にあった。座席に座り、苦労してようやく携帯電話から指を離した。液晶の表示は消えている。
 この携帯電話は、どうするべきだろうか。降車駅が近づいてくる。迷った末、この電車に「置き忘れる」ことにした。なにげない風をよそおって、そっと携帯電話を座席の上に置く。
 電車が止まり、ドアが開く。立ち上がってホームへ降りる。
 誰も声をかけないでくれ。「忘れ物ですよ」などと言わないでくれ。そう祈りながら、私は駅の階段を駆け上がっていった。



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