第194回 犬 1998.7.15
真夜中の住宅街、人通りのない寂しい道。私は車を走らせていた。
珍しく、残業でかなり遅くなってしまった。私には勿体ないくらい美人の妻と、可愛いさかりの一才になる娘の顔を早く見たい。そんな逸る気持ちが自然とアクセルに伝わり、車はかなりスピードが上がっている。
突然、ライトの中に小さな影があらわれた。あわててブレーキを踏んだがすでに遅く、バンパーに軽い衝撃が走る。その小さな影は宙を舞い、車の屋根を越えると後方に落ちていく。その姿が、まるでスローモーションのようにバックミラーに映った。犬だ。中型の柴犬、その目がバックミラーの中から私を見つめている。
永劫にも感じる一瞬ののち、犬の体が地面に落ちる音が聞こえた。振り返ってみるが、薄暗い街路灯に照らされたその犬はぴくりとも動かない。
私は逡巡した。勿論、人間なら助けなければならないが、相手は犬だ。幸い、目撃者はいない。周りの住宅からも、事故に気付いた気配は感じられない。私はもう一度辺りを見回し、溜息を一つつくと再び車を走らせた。
帰宅を迎えてくれたのは妻。娘はすでに就寝している。
先刻はあれほど顔が見たいと思っていたのに、今はなぜか一人になりたいと感じていた。私は、入浴を済ませ軽く晩酌をすると、早々と床に着いた。寝室は六畳の和室、ここに蒲団を敷き、私と妻と娘の三人が寝る。そういえば、バンパーの傷の具合を確認していなかったな、などと考えているうちに眠りに落ちていた。
眠りは泣き声によって破られた。娘だ。何やらただならぬ様子で、火がついたように泣いている。妻があわてて明かりをつけ、あやし始めるが一向に泣きやまない。時計を見ると午前三時。私も起きあがり、娘の様子を見に行く。
振り回す娘の腕が、右足を指しているように感じた。服をまくって見ると、娘のふくらはぎには、くっきりと歯形がついていた。うっすらと血が滲んでいる。夜泣きの原因はこの傷だろうか。薬を塗ってやると娘は大人しくなり、やがて寝入ってしまった。妻に小声で訊いたが、心当たりはないと言う。
娘の足に刻まれた傷は、犬の歯形のように見えた。
翌日も、まったく同じように娘が泣きだした。時刻も同じ午前三時。あわてて娘の体を確認すると、やはり同じように歯形があった。今度は左腕だ。
おかしい。昨夜は、私が娘を入浴させた。その時は確かに、こんな歯形はついていなかった。そしてそれ以降就寝するまで、娘から目を離したことはなかった。勿論外出などしていない。まさかとは思ったが、私と妻は明かりをつけて家中を探し回った。無論、犬など見つかる筈もない。
ふと、先日私がはねた犬のことが頭をよぎる。まさか。そんな、呪いだの祟りだのいうことがあるわけがない。
しかし、この事態は更に数日続いた。娘の足に、脇腹に、そして頬に、まるで犬に噛まれたかのような傷跡が刻まれている。明かりをつけて寝ても効果はない。さらに、徹夜して見張ろうとしても、私も妻もいつの間にか眠ってしまっている。妻は精神的にかなり消耗してきているようだ。
そして妻は遂に、ビデオカメラを持ち出した。一晩中娘の姿を撮影し、娘を襲う者の正体を確認しようというのだ。ビデオカメラをセットすると、明かりをつけたまま私と妻は布団に入る。妻の手は、しっかりと娘の手を握っている。なんとか今夜は起きていようと思ったが、やはりいつの間にか眠っていた。
そして午前三時、いつものように娘が泣き出す。私と妻は飛び起きて辺りを見回したが、勿論、怪しいものの気配もない。娘の傷を確認すると、左足のふくらはぎについていた。
私と妻は、録画されたビデオを見ることにした。
しばらくは、三人の寝ている姿だけが映っている。動くものの姿はない。そのまま見続けていると、やがて私がゆっくりと頭を上げた。
おかしい。こんなことは記憶にない。
しかし画面には、目を見開き、大きく開けた口からはよだれを垂らしている私の姿が映っている。
そして、画面の中の私は、小さなうなり声をあげながら四つん這いのまま娘へ近づいていくと、娘の足に噛みついたのだ。
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