第195回 走れタクシー 1998.7.21
「前の車を追ってください」
ハードボイルドに、私はそう言った。
「……は、はい、わかりました」
運転手は一瞬ためらったのち、タクシーを発車させる。
「お客さん、ひょっとして警察の方ですか?」
残念ながらそうではない。ちょっと言ってみただけである。前のタクシーに乗っているのは、私の上司、平山課長だ。
ここは岡山。うちの会社の某工場で開催される某会議に出席するため、はるばる大阪から新幹線に乗ってやって来たのだ。そして、岡山駅の改札口を出たところで同じく出張してきた平山課長の背中を見つけた。どうやら同じ列車に乗っていたらしい。追いついて声をかけようとしたが、平山課長も意外に足が速い。結局タッチの差で捕まえられず、平山課長はタクシーに乗って行ってしまった。私はすかさず、次のタクシーに乗って追いかけた、というわけだ。
タクシーの運転手は、五十がらみの人の良さそうなおじさんである。このおじさんには、私が刑事に見えるのだろうか。面白そうだから、このまま刑事のふりをしておこう。
「そう、大阪府警捜査一課の者です」
「なるほど、それはそれはご苦労様です。で、ひょっとして前の車に乗っているのは犯人か何かですか?」
「ええ、ただいま凶悪な殺人犯を尾行中です。このことは、くれぐれも内密に願いますよ」
「なるほど。でも、とても殺人犯には見えませんねえ。一体どんな事件なんです?」
私の乗ったタクシーは、平山課長の乗ったタクシーを追跡している。路面電車の線路を右手に見つつ。
どんな事件? ……か。さて、どんな事件がいいだろうか。ここはやはり、マニアックに密室殺人でいくべきだな。
「ええ、なかなかの知能犯でしてね。実は、密室殺人なんですよ」
「み、密室ですか?」
「そう。被害者はあの男の妻。最近夫婦仲が悪く、離婚話が持ち上がっていたようです。で、妻に莫大な慰謝料を請求されて、払うのが惜しくなったんでしょう。妻は生命保険にも入っていたし、一石二鳥というところです」
平山課長、すまぬ。ここは一つ、悪役になってくれ。
「動機もあるし、アリバイはない。あの男の犯行だということは確実なのですが、困ったことに現場が密室だったのです。この密室の謎を解かない限り、逮捕はできません」
タクシーは天満屋バスセンターの脇を通り過ぎ、橋を渡って岡山県庁前に差し掛かっている。
私は、一度だけ訪問したことのある平山課長の家を思い出しつつ話を作り上げる。
「犯行現場はヤツの自宅にある半地下式のオーディオルーム。ここで、ヤツの妻の絞殺死体が発見されました。出入口は鋼鉄製のドアのみ。あとは、明かり取りのために50センチ×1メートルくらいの窓があるだけです」
ううむ、窓はもう少し小さい方がよかったかな。私は補足した。
「この窓はガラスがはめ殺しになっており、開閉はできません」
「なるほど。鍵はどうだったんですか?」
「シリンダー錠と掛け金で、二重にロックされていました。小細工する余地はありません」
「すると、壁に秘密の出入口があるとか……」
む。ひょっとしてこの運転手、ミステリマニアか?
「いや、部屋は隅々まで調査しましたが、秘密の出入口などありませんでした。まさに完全な密室です」
タクシーはそろそろ東山峠を越えようとしている。
「すると、怪しいのは窓ですね。ガラスに何らかの仕掛けは?」
「いや、何も仕掛けはありません。ガラスは外側からしっかりと、真っ白いパテで固めてありました」
「……え? その家は新築ですか?」
「? ……いや、築10年は経っているはずですが。それが何か?」
「普通、10年も経っていれば、パテは灰色に汚れてくるはずですが。真っ白だったということは、最近取り替えられたのではないですか?」
う、しまった。つい口が滑ったところにツッコまれてしまった。この運転手、なかなか鋭いぞ。なんとかつじつまを合わせなければ。
「ええと、そ、それはですね。……そうそう、数日前にあの男が庭でゴルフの練習をしていて、ガラスを割ってしまったんですよ。すぐに業者が来て、ガラスをはめ変えました。ちゃんとウラも取ってあります。犯行日には、ちゃんとガラスがはまっていました」
「ううむ、なるほどねえ……」
運転手はしばらく黙り込んだ。そろそろ工場が近い。
「刑事さん、やっぱりそのガラスがトリックですよ」
運転手が口を開く。
「犯人は前もってガラスを割っておき、被害者を絞殺したあとに窓から出て、新しいガラスをはめ込んだのです。しかし、パテが新しいと最近取り替えたものだということがバレてしまう。だから、事前にゴルフの練習で割ったふりをしてガラスを取り替えておいたのです。こうしておけば、パテが新しくても不思議はありませんからね」
「……ううむ。……し、しかし、窓は普通内側から取り付けるものでは……」
「でも刑事さん、先ほどおっしゃったでしょう? 『外側からしっかりと、白いパテで固めてありました』って」
「……なるほど。確かに、そう考えてみれば密室の謎は解ける……」
「でしょう? いやあ、これで事件は解決ですね。私も協力できて嬉しいです。……あっ、犯人が車から降りましたよ、刑事さん」
私を降ろしたタクシーは走り去っていった。
なんということだ。まさか、この密室の謎が解けるとは思わなかった。名探偵というものは稀少な存在だと思っていたが、探せばいくらでもいるものである。
そして、謎が解けたからには、することは一つしかない。私は、前を歩いている男に小走りで追いつくと肩に手をかけて言った。
「平山。署まで来てもらおうか」
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