第197回   ある朝突然に  1998.8.2





 そういう場面に出くわすとは、考えたことさえ無かった。
 今を去ること三週間前、その日の朝私はいつもどおり十時前に会社に着いたのだった。そしてデスクに座りパソコンの電源を入れた途端、目の前の電話が鳴った。上司の小西課長からだ。話があるので応接室に来てくれ、と言う。
 課長の名前が以前と違うじゃないか、などとツッコまないでほしい。前任の平山課長は殺人容疑で逮捕されたので小西課長が後任としてやって来たのだ。
 それはともかくとして、話とは何だろうか。大体、応接室に呼び出すというのがアヤしい。もしや、課で一番かわいい私に目を付けたのでは? ここなら誰も来ないぞ、ふっふっふ、さあ服を脱ぐんだ。いやんいやん、私には、心に決めた人がいます、ああっ、やめてください課長! ……などとデスクで悶えていても何の解決にもならない。意を決して応接室に向かった。

 私がドアを開けた途端、課長は言った。
「しばらく東京へ行ってくれませんか」
 ああっ、これが噂に聞く出向の内示というヤツか。私は、清水の舞台から飛び降りたような衝撃を受けた。しかし、ここで慌てふためいたり取り乱したりするのは私のプライドが許さない。落ちついた動作でドアを閉めるとその場で一回ターンをし、課長の前の椅子に座って足を組み左肘を背もたれに掛けて口に真紅の薔薇をくわえると私は言った。
「わかりました。道を行く人々に花を配る仕事ですね?」
「……違います」
「では、マッチを配る仕事ですか?」
「それも違うって」
「ま、まさか、動物の雄と雌を見分ける大仏の首を配れと……」
「違うというのに。配ったら儲けにならないでしょうが。売るんだよ、売るの!」
 な、なるほど、それは盲点だった。
「す、すると、何を売れと言うのでしょう? まさか……」
「春、じゃありませんよ」
「…………」
 ううむ、この課長、早くも私のギャグのパターンを読むようになったか。そろそろ始末せねばなるまい。
 などという、私の心の深奥に芽生えた殺意に気付くよすがもなく、課長は言った。
「春を売るなら、夏と冬もセットにしなければなりません。なんで秋が抜けているのかって? それは、『商い』だから……なんちゃって」
 さらに自分でもギャグを言ってるぞ。しかも、まったく面白くない。私はめまいを感じた。
「どうしたうえだくん、貧血ですか? 横になって休んだ方がいいのでは?」
 ……はっ、やっぱりそれが目的だったのか?
「いいえ、大丈夫です。大したことはありませんから」
「しかし……」
「小さな貧血、大きなお世話、です」
 というわけで、私は無事課長の魔手から逃れたのであった。完。

 ……いや、終わってしまってはいけない。真の物語はここから始まるのだ。
 私は再び、課長に尋ねる。
「で、結局東京で何をすればいいんでしょう?」
「そうそう、その件ですが」
 課長は立ち上がってゆっくりと窓まで歩いて行き、ブラインドを上げて窓を開けると私の方へ向き直った。夏の陽光が背中から差し込み顔がシルエットになる。髪が風でなびく。あざとい演出だ。
「この出向の目的……それは、我が社の最高機密に属します。ここでおいそれと口にするわけにはいきません。盗聴されている可能性があります」
 だったら窓を開けるなって。
「目的を教えるには、しかるべき手続きを踏む必要があります。最初の指令はここに書いてあります」
 課長は羊皮紙でできた巻物を差し出す。私はうやうやしく、それを受け取った。

 応接室を出ると間髪を入れずにトイレの個室に駆け込み、巻物を紐解く。そこには、こう書いてあった。
「東京支社企画室の姉小路という男に会い、次の指令を受け取れ。合い言葉は『スペインの雨は主に平野に降る』」
 さすがは極秘任務、用心にも用心を重ねている。簡単には真の目的にたどり着けないようだ。
 そしてそれからの二週間、私は出向の準備に奔走した。とは言え、東京での宿は会社の方で用意するとのことなので、大してすることはない。単にあてもなく奔走していただけだ。重大な懸念事項は一つだけ、押入の中の死体である。これからの季節、放置しておけば近所から苦情が来るのは間違いない。かと言って箕面の山中などへ埋めに行くのも面倒だ。結局、実家で預かってもらうことにした。

 二週間後、わずかな荷物を発送すると同時に私は新幹線に乗り込んだ。東京に着くとさっそく企画室の姉小路氏に面会を求める。
 姉小路氏からは、次の指令が書かれたフロッピーディスクを受け取った。しかしもちろん、これが最後の指令ではない。そこには次の指令を受け取る方法が書かれていただけである。私はその指示に従うしかなかった。
 それ以来、私は東京支社と横浜営業所と立川営業所を渡り歩き、八人の男女と会って三本のカセットテープを受け取りコインロッカーを開け携帯電話を拾い網棚の鞄を奪い塀にスプレーで落書きをし木の枝でSOSの文字を作り机を9の字の形に並べ風船爆弾を飛ばしハンカチを落とし砂にラブレターを書いてきたが、いまだに最後の指令には到達していない。いったい、いつになったらこの出向の目的がわかるのだろうか? そろそろ不安になってきた。

 ひょっとして、最後の指令には「はずれ」とか「大阪へ帰れ」などと書いてあるんじゃなかろうな。それとも、出向というのは私を追い払うための口実で、私がいない間に何かとんでもない陰謀が進行していたりして……ううむ。
 あまり考えたくはない話である。




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