第209回 残酷な荀子のテーゼ 1998.9.23
兵法といえば孫子の兵法が有名であるが、兵法よりも重要なものがある。それが律法だ。どれくらい重要かというと、兵法が二乗なら律法は三乗というくらいで、一乗の差があるのだ。
その律法であるが、これはもちろん、漢字や麻雀や気功や烏龍茶や杜仲茶や十六茶や爽健美茶と同じく中国から日本に伝わったものだ。さらに、儒教をはじめとする各種の思想も日本に大きな影響を与えている。なにしろ「儒教にしてねとあの娘は言った」ということわざまであるくらいだ。
というわけで、中国思想の話である。
古代中国、周末の乱れた時代に、苦しむ民衆を救わねばならぬという考えはおよそ志ある者には何人にも起こったのであるが、代表的な者は孔子と老子である。この二人に加え、諸子百家が輩出した。当時はすなわち春秋戦国時代、群雄が四方に割拠して互いに争い競って人材を招聘したこともあり、思想上もまさに群雄割拠、もっとも自由な時代でその内容もすこぶる豊富なものとなったのだ。
戦国時代の群雄のうちで、もっとも強大な力を誇ったのは孟嘗君であろうか。彼は巷では魔神とさえ呼ばれて恐れられた。すなわち、戦国魔神モーショークンである。しかしまあこれは中国思想とはあまり関係はない。
さて、孔子といえば『論語』である。これは弟子たちが孔子の問答をまとめたものと言われているが、その後中国や日本はもとより世界中に広がった。なにしろイースター島にまで伝わっているくらいだ。もっとも、このイースター島の『論語』は未解読だそうだが。
老子といえば道教の開祖である。道教の教えの根本は無為自然であるが、私としては今ひとつ釈然としないものがある。なにしろ、大阪で生まれた男やさかい、道教にはようついていかん、のだ。
その他、いちいち説明は省略するが、この時代には孟子荀子列子楊朱荘子墨子管子申不害商鞅韓非子などの諸子百家が登場した。参考書の目次を丸写ししているだけのように思われるかもしれないが、そのとおりである。
その後、中世に至り淮南子や董仲舒、近代に至り朱子や王陽明などが登場するわけだが、参考書の丸写しも面倒なのでこのくらいにしておいて、話は唐突に現代日本に移る。
これらいにしえの先人たちの教えの数々、儒教や道教などは、すでに現代日本からは消滅してしまったのであろうか。いや、そんなことはない。これらの思想は我々日本人の心の奥に脈々と受け継がれ、迷える者に人生の指針を、悲しむ者に明日の希望を、傷つきし者に魂の癒しを与え続けているのだ。たとえば、歌謡曲である。
終戦後の荒廃した日本。活力を失った人々に生きる気力を与えてくれたのは、笠置シヅ子の歌った『道教ブギウギ』である。道教はその後も繰り返し歌謡曲のテーマとなり、『道教ラプソディー』『道教だよ、おっかさん』『道教音頭』『道教砂漠』などの名曲が生まれている。
高度成長期の日本。日夜戦い続ける企業戦士たちにひとときの休息をもたらしてくれたのは、小柳ルミ子の『わたしの城下町』である。出だしのフレーズ、
「孔子道、くぐりぬけ〜」
を聞いてもわかるように、これは孔子の教えを述べた歌だ。しかし意外なことに、孔子を歌った歌は少ない。あとはせいぜい、童謡の『ドナドナ』くらいだろうか。
そして、日本が一応先進国の仲間入りをした後は、陽明学をテーマにした歌が多い。郷ひろみは、
「1・2・サンバ、2・2・サンバ、王陽明、王陽明、王陽明サンバ〜」
と歌っているし、その他加山雄三や新沼謙治やジューシイ・フルーツなども同様のテーマを歌っている。
いにしえの先人たちの教えを学び、道理に通じた者を賢人と呼ぶ。
歌謡曲にまで歌われて人口に膾炙しているという事情を鑑みれば、日本人の中に賢人が多いのも当然と言えるだろう。なにしろ、秋田賢人会や新潟賢人会など、各地域ごとに賢人会があるくらいなのだから。なぜか東京賢人会や大阪賢人会は存在しないが、これは東京や大阪には賢人が少ないからであろう。なお、どの賢人会にも属さない賢人は、るろうに賢人と呼ばれる。
こういった賢人会に集まる人々は、どういった思想を学んできたのか。儒教か朱子学か陽明学か。疑問に思って、先日尋ねてみた。答は意外なことに、儒教でも朱子学でもなかった。賢人会は、道教の者の集まりだったのだ。
なお残念ながら、座ると膝が三つできるかどうかは聞きそびれた。
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