第211回   狸寝入りの男  1998.9.30





 金曜の夜。東京発大阪行きの新幹線は尋常でない混雑ぶりを呈している。
 19時3分発のひかり335号も例外ではない。指定席はとうの昔に売り切れ、グリーン車にわずかに空席を残すのみ。自由席は通路まで乗客が溢れている。
 そのひかり335号は定刻どおり発車した。しかし中ほどの車両、指定席の13号車にはちらほらと空席が見える。乗り遅れた乗客のものか、あるいは途中の駅、名古屋あたりからの乗客のものだろうか。
 発車してから十分も過ぎたころ、一人の男が13号車の自動ドアを開けて入ってきた。年齢は三十前くらいだろうか。白のシャツにネクタイをしめ、右手には大きな鞄、左手には漫画週刊誌を持っている。その男は肩をわずかにすくめ、目だけを動かして左右を眺めながら歩いてくると、二つ並んだ空席の通路側に座った。鞄を足許に置き足を組むと、すぐに頬杖をついて目を閉じる。
 見るからに不審な男だ。おそらくこの男、指定席券を持っていないのだろう。しかし、混雑した自由席で立ったまま行く気にもなれず、指定席へ行って座ろうと思ったに違いない。だが、発車前に座ってしまい、後から来たその席の本来の持ち主とかち合ってしまっては困る。だから発車から数分後、空席であると確認できた席を見つけて座った。いきなり目を閉じて寝たふりを始めたのは、検札に来た車掌に指定席料金を取られないようにするためだ。この不審な行動の理由は、そういうところだろう。

 新横浜を通過してしばらく経ったころ、いつもどおりに車掌が検札に来た。例の男は相変わらず目を閉じ、狸寝入り……と決めつけてもいいだろう……をしている。車掌は他の乗客の乗車券を確認しつつ、近づいてくる。いよいよ彼の番だ。
「お客様、乗車券を拝見させていただきます」
 しかし、彼は寝たふりを続ける。
「お客様……」
 車掌は数度声をかけたが、彼は目を開けない。車掌はあきらめたのか、次の席へ移動していった。
 しかし、彼は相変わらず目を閉じたままである。まだ周囲の目が彼に注目しているからだろう。すぐに目を開けては、狸寝入りだったことがバレてしまう。車掌が次の車両に移っても、彼は狸寝入りを続けていた。

 二時間ほどが過ぎ、ひかり335号は三河安城を通過した。名古屋が近い。
 ここで彼はようやく目を開ける。もう大丈夫、と思ったのか、それとも名古屋で降りるのだろうか。彼は手にした漫画週刊誌を開いて読み始めた。
「お客様、乗車券を拝見……」
 いきなり声をかけられ、彼は驚いて顔を上げる。先ほどの車掌だ。今度は彼の背後から近づいてきたらしい。さすがはプロ、おそらく彼の狸寝入りも見抜かれていたのだろう。あきらめたと思わせて、油断して狸寝入りをやめた頃にやってくれば、指定席料金を支払わざるを得ない。彼のような手口で指定席料金を浮かそうとする者は意外と多いのかもしれない。
 彼は観念したような顔で乗車券を差し出した。車掌がそれをチェックする。
「名古屋までですね。指定席料510円いただきます」
 彼は財布を取り出して、言われた金額を支払った。

 二時間の狸寝入りで浮かそうとした金額は、わずかに510円。アルバイトの時給としても安すぎる。しかも結局払わねばならなかったわけだから、彼の必死の演技も無駄になってしまったわけだ。こんなことなら、さっさと510円を払って堂々と乗っていた方がよかった、と彼が考えたかどうか。
 そしてその車掌は徴収した510円を腰に付けた鞄に入れると振り返り、今度は私に声をかけた。
「お客様、乗車券を拝見させていただきます」
 しまった! 通路をはさんだ席に座っている彼の動向に気を取られ、狸寝入りをするのを忘れていた。……グウグウグウ。
「……お客様、今さら寝たふりをしても無意味かと」
 そうか、やっぱりそうだよなあ。
 はいはい、払いますよ、払えばいいんでしょう。




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