第234回 大きな鍋の内と外 1999.1.17
「そろそろいいのではないか?」
「よし、肉を投入するぞ、肉を」
「豆腐豆腐」
「白菜白菜」
「しらたきと糸こんとマロニーとくずきり」
「こらこら、もう少し節操を持ちたまえ」
「拙僧には節操などないのである」
「……冬といえば、やっぱり鍋に限るな」
「こらこら、無視するな」
「……鍋といえば、やっぱり鍋奉行であるな」
「無視するなってのに」
「なんだ、その鍋奉行というのは」
「む、知らないのか」
「そういうお前は知ってるのか」
「いや、知らないが、どこかで小耳にはさんだことがあるようなないような気もしないでもなくもない」
「おいおい、誰も知らないのか」
「うむ、しかし、名前から察するに、鍋をかぶった奉行のことだろう」
「なんだそれは。そんな奉行がいるわけないであろう」
「いや、そうとも限らないぞ。さる文献によれば、鉢をかぶったお姫様は実在したらしい」
「殻をかぶった黒いヒヨコも実在したらしい」
「それは関係ないって」
「だいたい、鍋をかぶってどんなメリットがあるのか」
「ええと、町中で情報収集をするときに目立たずにすむとか」
「目立ちすぎるって」
「遊び人に見えないか」
「見えない見えない」
「いちおう、さくら鍋だった、というオチがついているんだけど」
「だめだめ。却下だ」
「ううむ、じゃあ、こんなのはどうだ」
「却下」
「せめて聞いてからにしろよ。ええと、やっぱり、町奉行とか寺社奉行とかの類推から言えば、鍋に関する訴訟を裁いたんだろうな」
「どんな訴訟なんだ、それは」
「最後に残った肉一切れを箸で取り合ってる二人に対してだな」
「ふむふむ」
「我が子を思って手を離した方がまことの母親」
「……さてと、そろそろ煮えたか」
「よし、食うぞ」
「おい、無視するなって」
「うるさい。以後の発言を禁じる。黙って食うように」
「うむ、うまい」
「やはり、冬は鍋に限るな」
「鍋といえば、やはり闇鍋であるな」
「こら、お前の発言は禁じたはずだぞ」
「まあそう言わずに、聞いてくださいよ旦那」
「しかたないな」
「闇鍋といえば、やはりアレだろう」
「そうか、アレか」
「そうだ、アレだ」
「リグ・ヴェーダに曰く、世界には光の鍋と闇の鍋が存在し、はるかな過去から永劫の未来に渡って戦い続けているという」
「ありふれた話だな、それは」
「うむ」
「闇鍋といえば、思い出すなあ、終戦直後の話を」
「ほら出た」
「まあ、いちおう聞いてやるか」
「なにしろ、戦後の食糧難の時代だ。食品の流通は厳密に管理されていた。人々は皆、生きていくのに必死だった。とにかく食えればいい、味などはもちろん二の次だ。配給物資も限られている。こんな状況では、贅沢な鍋などもってのほか、鍋料理はGHQによって弾圧されていたんだ」
「圧力鍋、というやつか」
「おっ、うまいねどうも」
「黙って聞けよ。ところが、禁止されれば闇で流通するのが世の常だ。鍋も例外ではない。あれは私が、東京の焼け野原に立ったバラックの脇を歩いていたときのことだ。一人の男が物陰から声をかけてきた。社長社長、ええ鍋ありまっせ。このときに食べた鍋の、うまかったことといえば、それはもう」
「……」
「……」
「高度成長期に入って、この闇鍋は消滅したかに見えた。しかし最近になって、新たな形で復活しているのである。あれは私が、歌舞伎町の繁華街を歩いていたときのことだ。一人の男が物陰から声をかけてきた。社長社長、ええ鍋ありまっせ。いまどきどんな闇鍋だ、と思って差し出されたメニューを見ると、クジラ、イルカ、ウミガメ、オオサンショウウオ、シーラカンス……」
「なんだか、あまり食欲をそそらないようなものも混じっておるようだが」
「いや、そんなことはない。闇鍋だけに、やみつきになります」
「……ネギが足りないようだが」
「じゃあ、もうちょっと切ってくるか」
「なら、オレはビールを出してこよう」
「こらこら、無視するなというのに。あと、かつて一世を風靡した鍋猫の話もあるんだから。猫に豆腐とか白菜とか椎茸とかの衣装を着せて鍋に押し込んで写真を撮って、食べんなよ、とか言って。……おおい、聞いてくれよ、おおい」
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