第235回   日々是妄想  1999.1.21





 人はつねに、非日常を求める。
 飢餓や戦争や犯罪で極限状況にある人々は平凡で平和な日常生活を空想し、平凡な生活を送る者は劇的な事件や波瀾万丈の展開を空想する。私のような平凡な人間が空想するのは、むろん後者である。
 今日は、こんな事件が起きないだろうか。こんな展開にならないだろうか。そのような空想は暴走し妄想に至る。そしてその中には、公序良俗に反する妄想や不道徳な妄想も含まれているのだ。
 普通の人間であれば、たとえ妄想の中とはいえそのような不道徳な想像は無意識のうちに排除される。フロイトなどは、これを「検閲」と呼んでいるようだが、私の場合はその検閲の機能が不十分なようで、不道徳な妄想に至ることもしばしばである。なにやら普通の人間よりも劣っているように見えるが、ものは考えよう、私の頭の中ではそれだけ言論の自由が保障されているのだ、と思えばいい。

 振り返れば、今日も平凡な一日だった。しかし平凡なのは現実の生活で、妄想の中では私は常に波瀾万丈の人生を過ごしている。今日の妄想は、こんな感じであった。

 朝。出勤前に銀行に寄って金をおろす。残高と相談しながら決めた金額は二万円である。
 すると、キャッシュディスペンサーにカードを差し込み金が出てくるのを待つ間に、ふと妄想がわき上がってくる。ひょっとして機械の故障かプログラムのバグか何かのせいで、多めに出てくるかもしれない。二十万円くらい出てくればうれしいのに。もし出てきたらどうしよう。もちろん、なにごともなかったようなふりをして平然とその金を財布に収めるのだ。監視カメラがあるから、不審な動作をしてはいけない。ゆっくりと立ち去らなければ。よし、うまくいったぞ。差し引き十八万円の儲けか。何に使おうかなあ。
 ……などということが起きるわけもなく、出てきたのは当然ながら二万円のみだった。

 午前中は会議。現在抱えている大きな課題への対策を考える会議で、管理職も大勢出席している。私はその末席に名を連ねていた。
 しかし、対策などそう簡単に出るわけもない。ほどなく会議は膠着する。ここで再び妄想がわき上がってくる。私が何気なくつぶやいた一言。それを聞いて、管理職たちの顔色が変わる。お、おい、うえだくん、今なんと言った! 私はびっくりして、さっきの発言を繰り返す。それを聞いて、会議はにわかに活気づく。そう、その手があったんだ。これで明かりが見えてきたぞ。なんという素晴らしい発想だ。こんな人材が埋もれていたとは。
 ……などということが起きるわけもなく、会議は沈滞ムードのまま終了した。

 昼休み。ビルの食堂街で昼食を取ったあと、本屋へ入る。
 文庫本のコーナーで立ち読みをしている女性がいた。年の頃なら二十五六、ショートカットに小振りの銀縁眼鏡をかけた、けっこう可愛い女性だ。私の好みである。これで眼鏡がもう少し大きければ完璧なのだが。などと贅沢なことを考えていると、再び妄想がわき上がってくる。あなたもその作家のファンなんですか? ええ、好きなんです。そうですか、私もよく読んでいるんですよ。気が合いますね。どうです、そこの喫茶店で少しお話でもしませんか? はい、喜んで。そして二人は、これをきっかけに恋に落ちていくのであった。うむ、なかなかいいぞ。問題はその作家を私が知っているかどうかだな。
 そこで、その女性の持っている本を見る。我孫子武丸の『殺戮にいたる病』だ。読んだことはある。しかし、このようなスプラッターミステリは、恋の始まりのアイテムとしてはいささか不適切なような……。いや、かえっていいのかも。この殺し方なんか、なかなか刺激的でいいですね。ええ、特に死体の切り刻み方が素敵。こっちの性描写も、かなり興奮させるものがありますね。どうです、ちょっと二人で試してみませんか? はい、喜んで。そして二人は、めくるめく官能の世界へ……。
 ……などということが起きるわけもなく、私は黙って本屋をあとにした。

 帰宅の電車の中。一つだけ残っていた空席に素早く滑り込んで腰を下ろす。
 次の駅に着くと大勢の人が乗り込んできた。かなり混んでいる。この混み具合を見ていると、再び妄想がわき上がってくる。一人の老婆が電車に乗り込んでくる。着ている服はぼろぼろで、みすぼらしい姿だ。誰も席を譲ろうとしない。そこで私は意を決して立ち上がり、その老婆に席を譲る。老婆は涙ながらにお礼を述べる。ありがたいことじゃ。この世知辛い世の中に、まだこんな優しい若者がおったとは。わしは郊外に土地を持っており、財産も五十億ほどあるのじゃが、子供も親戚もなくひとりぼっちじゃ。よし決めた、わしの財産はすべてあなたに譲ることにしよう。
 ……などということが起きるわけもなく、私はそのまま座っていた。
 しかし婆さん、よく考えてみたらあなたの言っていることの方が妄想なのでは? って、自分の妄想の中の人物にツッコミを入れても仕方ないか。

 夜。今夜も一人、雑文を書いている。
 今回の話はよくできた、などと自己満足にひたっていると、再び妄想がわき上がってくる。突然、某大手出版社の編集者からメールが来る。あなたのページ拝見しました。多彩な題材と巧みな文章、いままでこんな素晴らしいページは読んだことがありません。是非一度、直接お目にかかってお話をうかがいたく云々。そして高級ホテルのレストランで会ってみると、その編集者は言い出すのだ。あなたの雑文、一冊にまとめて出版しましょう。いや、出版させてください。これだけ面白ければベストセラー間違いなしです。そしてこの本をきっかけにして、私はミステリやSFをはじめとする数々の本を世に送り出す。出す本はすべてベストセラー、各文学賞も総なめにして流行作家の仲間入り。
 ……などということが起きるわけもなく、私はあいかわらずくだらない雑文を細々と書き続けるのだ。

 そろそろ寝るか、と考えて布団に入る。明日の朝、目が覚めたら、超能力者になっているかもしれない。そうしたら、気にくわない奴らに復讐してやるのに。こんなことや、あんなことをして。ふっふっふ。グウ……。




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