第239回 バレンタイン・ルネサンス 1999.2.14
近ごろではバレンタインデーと言えばチョコレートと相場が決まっているようだが、この習慣の由来を覚えている人は多くはないようである。バレンタインデーのきっかけとなったエピソード、それはこんな話だ。
1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し第二次世界大戦は終結した。同年9月には米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印し、その後は進駐軍と呼ばれる米軍の統治を受けることになる。
戦争末期の日本は悲惨な状態であった。国家予算の大部分は軍事費として使用され国民に回す金などあるはずもなく、加えて連日の米軍による無差別爆撃のため街は焦土と化し、家も食べ物も失った国民の生活は窮乏を極めた。戦争が終結したと言っても一朝一夕にこの状態が改善されるわけもない。街に溢れた戦災孤児たちは物乞いからかっぱらいまでありとあらゆる手段を使って生き延びようと努力していた。
明けて1946年のこと、GHQへ赴任してきた米陸軍のバレンタイン少佐はジープに乗って東京の街を視察していた。見渡す限りの焼け野原の中に、ぽつりぽつりとバラックが建ち始めている。瓦礫の散らばる道を歩いている、薄汚れた服を着た人々。年端もいかない子供の姿も目立つ。寒空の下、裸足の子供たちも多い。この戦争を始めたのは大日本帝国の政治家と軍人たちだ、この子供たちには罪はない。それなのに、戦争の傷跡は子供たちをも容赦なく苛んでいる。バレンタイン少佐の胸は痛んだ。
ジープを止めてあたりを眺めていると、数人の子供たちがおずおずと近づいてきた。みな同じように痩せて汚れた顔をしている。その中の一人が、意を決したように少佐に何事か話しかけてきた。もちろん少佐は日本語を解さないが、その目を見れば何を言われたかはだいたい想像がついた。少佐はたまたま持っていたハーシーのチョコレートを一枚、その子供に渡す。子供たちは歓声を上げ、いっせいに少佐に向かって頭を下げると走り去っていった。少佐は、胸の痛みが少しだけ和らいだような気がした。これが、1946年(昭和21年)2月14日のことである。
それ以来バレンタイン少佐は、暇さえあれば東京の街を走り、子供たちにチョコレートを与え続けた。少佐の噂は戦災孤児たちの間で徐々に広がっていき、次第に多くの子供たちが集まるようになる。チューインガムやクッキーを持っていくこともあったが、やはり主体は少佐の好物でもあるチョコレートだった。いつしかこの話は全国に広まり、少佐が初めてチョコレートを配った日である2月14日をバレンタインデーと呼ぶようになった。
このようにバレンタインデーとは、恵まれない子供たちに食べ物などをプレゼントする、という記念日なのである。確かにチョコレートが大きく扱われてはいるが、必要不可欠なわけではない。チューインガムやクッキー、何でもいいのだ。この主旨がいまや忘れ去られているのは残念なことである。
あれから五十年以上たった今、バレンタイン少佐の崇高な意志は忘れ去られ、チョコレートだけが一人歩きしてバレンタインデーは変貌してしまった。日本各地でその土地の習俗と奇妙に融合し、もはや原型を留めていない。たとえば、ある地方ではバレンタインデーには年の数だけ麦チョコを食べる習慣ができあがった。恵方を向いてチョコレートを丸かじりするという習慣の地方もある。その他、板チョコに願い事を書いて神社に奉納するとか大通りにチョコレート製の巨像を飾るとか田んぼに溶かしたチョコレートを流し込んでその中に入りチョコレートをかけあうとか巨大なチョコレートの柱に乗って山を滑り降りるとか、正気の沙汰とも思えない行事が日本全国で行われている。
さらに、チョコレート自体も変貌している。チョコレートを主体にした、様々な奇妙な食べ物が続々と発売されているのだ。この傾向は、特に大阪で顕著である。
まず、タコ焼きチョコとチョコタコ焼きというものがある。どっちでも同じだろう、と思うかもしれないが、まったく別物である。前者はタコ焼き型をしたチョコレートで、後者はタコの代わりにチョコが入ったタコ焼きである。ならばチョコ焼きと呼ぶべきじゃないかとも思うが、大阪人というのはいいかげんなものであり特に違和感は感じていないようだ。
さらに、カレーとチョコレートを使用した、様々な料理も出てきた。カレーライスの形をしたチョコレート、カレー味のチョコレート、カレー粉の代わりにチョコレートを使用したもの、チョコレートにカレーをかけたもの、ライスチョコにカレーをかけたもの、ライスにチョコレートをかけたもの。こうなると、どれとどれが同じでどれが違うものなのかさっぱりわからない。カレーチョコかチョコカレーか、どんな名前で呼んだものやら見当も付かないのだ。だから、飲食店でこれらの料理を注文するときは注意が必要である。「カレーチョコ一つ」と注文しても、あなたが思い浮かべる料理が出てくるという保障はないのだ。
ともあれ、ここまでグロテスクに変貌してしまったバレンタインデーにはもはや用はない。今こそ初心にかえり、本来の意味を思い出すときだろう。バレンタイン少佐の崇高な意志を復活させなければならないのだ。だから、バレンタインデーには、恵まれない人々にプレゼントを贈るようにしようではないか。
もちろん、私が、恵まれない人々の一人であることは言うまでもない。
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