第246回   夢の中へ  1999.4.1





 意図的に封印している記憶がある。
 それは学生時代の出来事の記憶なのだが、今に至るも自身の心の中で決着がつかないからである。
 超常現象、に属する類いの事件ではない。一見そう思える面は否定できないが、恐らくは偶然が重なった結果なのだろう。しかし、私はその事件を「解釈」するのを今まで拒否してきた。思い出すことさえ恐ろしくて、記憶の底に封じ込めてきたのだ。
 今回、敢えてその禁を破って事件について記す理由は幾つかある。まず、毎年この時期になると必ずその事件の夢を見るのだ。いくら記憶の底に封じ込めたつもりでも、夢の中には容赦なく出現してくる。かえって、無理に封印しているのが逆効果なのかも知れず、文章化して纏めてみることで記憶を清算できるのではないか、という考えである。もう一つは、そう、鎮魂だろうか。私が決着を付けなければ、まだ魂は虚空を彷徨っているのかもしれない、などと埒もなく考えてしまったのだ。
 前置きは程々にして本題に入ろう。それは、こんな話である。


 今を溯ること十数年前、私が大学に入学した直後のことだ。私は、二人の女性とともに駅から大学へと続く道を歩いていた。緩やかな上り坂となっているその道の脇には散り初めの桜が並び、春風に舞う花びらの下を学生たちが行き来している。私たちも、その中に紛れてしまえばまったく目立たない、平凡な三人連れだった。
 この二人の女性は、ともに私の友人である。高校時代の三年間を通じて仲が良かったグループのうちの二人だ。それぞれ別の大学へと進学してしまったが、私の大学のキャンパスを一度見てみたいということで、その日は私が案内役を仰せつかった次第である。
 この二人、それぞれに魅力的だったが、タイプはまるで違っていた。名前は、そう、仮に香苗と奈美としておこうか、香苗は百七十センチに近い長身でスタイルもいい。軽くウエーブのかかった髪が腰まで流れている。細面で鼻筋のとおった顔立ちで、婉然と微笑む切れ長の目が美しかった。対する奈美は小柄である。形のいい丸顔によく動く黒目がちの大きな瞳が魅力的だ。濃い焦げ茶色の髪はストレートで、肩にかかっている。そして、賢明な読者諸氏にはすでにお分かりかと思うが、私の好みは奈美の方だった。
 つきあっていたわけではない。告白さえしていない。しかし、香苗も奈美も、私の心がどちらに傾いているのかは気付いていたのかもしれない。だが、当時の鈍感な私には、奈美の……そして香苗の気持ちはまったくわからなかった。そんな、微妙に危うさを孕んだ三人連れだったのである。

 桜並木が終わり大学の構内に入る。私たちは、池のほとりのベンチに陣取ることにした。そしてこういう場合、缶ジュースを買いに行くのは大抵私の役目である。二人をベンチに残して食堂の脇の自動販売機に向かった。缶ジュースを三本買って帰ってくると、奈美の姿が見えない。座っていたのは香苗だけである。

 奈美は、と私が尋ねる。知らない、と香苗が答える。

 缶を抱えたまま、私は辺りを見回した。いない。いったい、どこへ行ったのだろう。そして、ふと見上げたとき、奈美を見つけた。
 古ぼけた鉄筋コンクリートの五階建ての棟。文学部だったか法学部だったか、その建物が池の脇にあった。そして、その建物の端にへばりついている赤錆の浮いた鉄製の非常階段、その最上部に奈美はいた。ここからの距離は三十メートル程ある。が、奈美だということははっきりとわかった。

 なぜあんなところに、と私がつぶやく。知らない、と香苗がささやく。

 そして香苗は、戸惑っている私の手から缶ジュースを一本取った。
 なぜか、奈美も戸惑っているようだ。大きな目をさらに見開いて、周囲を見回している。まるで、自分がなぜここにいるのか理解できない、とでもいうかのように。
 隣で缶を開ける音がした。香苗だ。香苗はジュースを一口飲むと、非常階段の奈美を見つめる。その口には、微かに笑みが浮かんでいる。そして、香苗は低い声で言った。

 落ちちゃえ。

 奈美が落ちた。
 胸まである手すりを無理矢理乗り越えたように見えた。
 頭を下にして落下する。まるでスローモーションのように風になびく髪。そして頭が、一階下の手すりにぶつかり、跳ねる。体が横を向き、右足の太ももがさらに一階下の手すりに当たる。その手すりは大きく裂け、鋭い切っ先を見せていた。
 鮮血が飛ぶ。右足が妙な角度に曲がる。次の瞬間には、奈美の右足は太ももの付け根から切断されていた。
 体と太ももが、別の方向に落ちる。三階、二階、一階。植え込みに隠れ、地面に落ちる姿は見えない。
 そして。アスファルトを叩く鈍い音が聞こえた瞬間。

 くすり、と香苗が笑った。

 我に返った私は、あわてて駆け出した。非常階段の下に着き、奈美の姿を探す。いない。どこだ。奈美はどこに落ちたのだ。
 ようやく植え込みの陰で奈美を見つけた。額が割れて顔が血まみれだ。抱き起こすと、細い首が、がくりと異常な方向に曲がる。奈美はすでに息絶えていた。
 呆然として奈美を眺める。右足の太ももから先がない。そうだ、右足を探してやらなければ。私は奈美の体をそっと横たえると、さらに植え込みの奥に分け入って右足の太ももを探し始めた。
 遠くからかすかに、救急車のサイレンが聞こえてきた……。


 それ以来、私は香苗には会っていない。
 香苗が怖いのか。だから記憶の底に封印していたのか。
 もちろん、それもある。しかし、何よりも恐ろしいのは、この私自身である。何しろ、植え込みの中で奈美の右足を探しているとき、思わずこんな歌を口ずさんでしまったのだ。
「さがしものは奈美ですか〜、見つけにくいももですか〜」




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