第250回 アリス 1999.4.17
アリス、という名の猫がいた。
私の家で飼っていたわけではない。奈良に住む伯母が飼っていた猫だ。盆や正月など、年に数回伯母の家に遊びに行った時に会うだけだったが、今でもアリスは私の記憶に鮮明に刻まれている。
アリスは白の雌猫だった。細身の体に一点の曇りもない純白の毛並みが美しい。そして、何より特徴的なのはその瞳である。右の瞳が青、左の瞳が金。いわゆるヘテロクロミア(金銀妖瞳)というやつで、他にこのヘテロクロミアで有名なものといえば『銀河英雄伝説』のロイエンタール元帥があげられる。ひょっとしてアリスはロイエンタールの血をひいていたのではないか。って、そんなことはないな。何しろ、ロイエンタールはずっと未来の人物だ。
小学校低学年の頃だったから、六歳か、七歳か。当時私は、伯母の家に行くたび、アリスを追いかけていた。子供心にも、アリスの美しさに惹かれていたのだろうか。とにかく、アリスに遊んでほしかったのである。だが私は、素直にそれを伝えることができなかった。走ってアリスを追いかけ回し、乱暴に持ち上げる。アリスにしてみれば、いじめられている、としか思えなかったのかも知れない。
だからこれは、残念ながら私の片想いだったようだ。アリスは私が抱こうとしても、すっと手をすり抜けて逃げていってしまう。そして離れたところから、目を細めてにゃあと鳴くのだ。よほど機嫌がよければ、座布団の上に寝転がりながらその美しい尻尾だけを振っておざなりに相手してくれる程度である。
だが、誰に対しても、アリスの態度は似たようなものだった。自由を愛する気高い猫だったのである。そのつれなさがまた魅力的で、私はずっとアリスの尻尾を追いかけていたように思う。
……って、なんだか初恋の人の想い出を語っているような気になってきたなあ。まあいい。
そしてある日のこと。アリスの機嫌がよかったのか、珍しく私の散歩につきあってくれたことがある。いや、むしろ、私がアリスの散歩のお供をしていた、と言った方が正確か。私とアリスは、神社の裏の森に入り込んでいった。
夕陽は西に傾き、山陰に消えようとしている。足下が暗い。突然、アリスが走り出した。暗闇の中で、純白のアリスの姿だけが目立っている。私は走るアリスを追いかけて。そして、何かにつまづいて転んでしまった。
転んだところに石でもあったのか、それとも木の枝か。私は左足のすねに怪我をしていた。痛いと感じるより、流れ出した大量の血を見て驚いた。私は大声で泣いた。このまま死んでしまうのだろうか、と思ったのだ。もちろん、今になって考えてみれば、命に関わるほどの怪我ではなかったのだが、当時の私はそう思いこんでしまったのだ。
泣きながらふと目を上げると、アリスがいた。その美しい瞳で、私の方を見ている。助けて、と言いかけて口ごもった。だめだ。アリスはそんな猫じゃない、と思った。果たしてアリスは私に背を向けると、木々の間に消えていった。
私はさらに泣き続けた。傷口が熱を持って、次第に痛みが増してきた。あたりはますます暗くなってくる。立上がることさえできなかった。
その時。草をかき分けて近づいてくる足音が聞こえた。しばし泣くのをやめてそちらを見る。木の陰からあらわれたのは、その神社の神主さんだった。
「ぼん、怪我したんか。もう大丈夫や。病院に連れていってやるからな」
その言葉を聞いて、私はさらに泣いた。
私は神主さんの背に負ぶさって森を出る。神主さんは、おだやかな声で私に話しかけた。
「猫がな、えらい声で鳴いてたんや」
……猫?
「そうや、真っ白の、えらいきれいな猫や。その猫が、まるで人を呼ぶような感じで鳴いとってなあ。気になって着いてきてみたら、ぼんがおった、というわけや。……ん? あの猫、どこ行ったかな? ああ、あそこにおるわ」
私は神主さんが指さす方向を見た。鳥居の下に、純白の猫。アリスだ。私の方を見ていたらしい。
しかし、私と視線が合うと、アリスはぷいと顔を背け、石段の下へと姿を消した。
折しも夕陽の最後の一片が山裾を掠めて沈んでいく。その残滓に照らされて、アリスの毛並みがキラリと光った。
そのキラリは、アリスが消えた後もしばらく鳥居の下に残っているように見えた。
猫なしのニヤリ、は元祖『不思議の国のアリス』のチェシャ猫の得意技だが、こっちのアリスは猫なしのキラリ、を見せてくれたのだ。
私はそれを見て、小さく、ありがとう、とつぶやいた。
そしてそれ以来、私はアリスの姿を見ていない。その後しばらくしてどこかへ消えてしまい、そのまま帰ってこなかった、という話である。
あれから三十年近くたっている。さすがにもう生きてはいないと思うが、それでも私は、いまだにアリスの姿を追い求めることがある。道端で白い猫を見つけたとき、ついついその瞳の色を確認してしまう。しかしその猫の瞳は平凡な色で、アリスのような美しさをたたえてはいないのだ。
子供の頃から、自分の想いを伝えることが苦手な私だった。果たしてあの時、私の「ありがとう」は、ちゃんとアリスに届いたのだろうか。
そんなことを考えながら、私は今日も白猫を見かけると思わず足を止めてしまうのだ。
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