第260回   それは夕立のように  1999.5.31





 それはいつもいきなりやってくる。
 私の部屋の電話が鳴り響いたのも、突然のことだった。
 考えてみれば当然のことである。あらかじめ鳴るぞと予告してから鳴る電話など、そうそうあるものではない。だいたい、その予告はどういう方法でされるというのだ。ひょっとして電話か。だったら当然、その予告電話にも予告が必要になり、その予告予告電話にも予告が必要になり、その予告予告予告電話にも……というわけで、永久に電話がかけられないのだ。
 などと、昼食のケンミンの焼ビーフンを食べながらくだらないことを考えている間も、電話は鳴り続けている。さすがに、食べ終わるまで待たせるわけにはいかないだろう。仕方ないなあ。私は箸を置くとよっこらしょと立ち上がり、のたのたと歩いて行くと受話器を取った。
「はい、もしもし……ええ、そうです。お世話になってます。……え? な、なんですって? もう一度言ってください。……そ、そんな馬鹿な! いきなりそんなことを言われても……む、無理ですよ! 考え直してください! ……いや、しかし……ちょ、ちょっと待っ」ガチャン。
 なんということだ。私は茫然と立ちつくしていた。いきなり奈落の底に突き落とされた気分である。握りしめた受話器に棘を感じる。まるでサボテンを掴み取りしているような感覚だ。

 私はしばらく茫然自失としているようなので、この時間を利用して状況説明をしておこう。じゃあオマエは誰なんだよ、というツッコミはしないように。
 電話をかけてきたのは宮脇、私が今『それは夕立のように』を連載している月刊「小説夏声」の編集者だ。そして用件は、この連載小説を来月号で打ち切る、というものだった。私が驚くのも無理はない、当初は「少なくとも三年」という約束で連載を開始したのだから。今月号で連載は四回目、まだ物語は始まったばかりである。
 しかし、今にして思えばこの事態も予想はできたのかもしれない。私をけっこう評価してくれていた富士川編集長が、つい先週突然解任された。噂によると社長の不興を買ったとのことである。そして後任は私とはなぜかそりの合わない境編集長だ。社長は富士川を境にして溜飲を下げたのかもしれないが、こちらはとんだとばっちりだ。
 で、この小説、どんなストーリーかというと。「前回までのあらすじ」を紹介しよう。

 主人公・飛鳥譲一は自衛隊員。防衛大学校を主席で卒業し、頭脳明晰運動神経抜群胆力にも優れ将来を嘱望されたエリートだ。某国へのPKO派遣の際には図らずも実戦に巻き込まれ、戦闘指揮を執ったこともある。譲一が休暇で日本に戻り、東京で最愛の恋人・杉浦亜季と束の間の逢瀬を楽しんでいたとき、地下街で爆発事故に巻き込まれた。死者五十人に及んだこの事故で亜季は死亡、譲一は重傷を負う。
 退院後、事故の顛末に不審を覚えた譲一は自衛隊の人脈を利用して独自の調査を始める。その結果、これは単なる事故ではなく爆弾を使ったテロで、来日中の平和運動家ミリヤム司教を標的にしたものだ、という事実が判明した。そして、このテロを実行したのは軍需産業を陰で牛耳る国際的秘密結社、ラング・ド・シャノワールだった。譲一は、この巨大な敵に対する復讐を誓う。
 自衛隊を辞めた譲一はさらに調査を続け、この組織の日本支部が暗闇六歌仙と呼ばれる六人の幹部によって運営されている事実を突き止めた。そして譲一はついに幹部の一人のアジトに潜入することに成功した!

 ごらんの通り、まだ序盤である。あと一回で決着がつくはずがない。いったいどうすればいいのか。
 まあ、痩せても枯れても私は小説家である。雑文書きはみんな嘘つきと言われるが、嘘つきに関しては小説家も負けてはいない。きっとうまく解決してくれることだろう。
 あ、どうやら私がようやく正気を取り戻したようである。

 ……やっと自失から覚めた。しかし、いったいどうすればいいのか。ここまで広げた大風呂敷を、あと一回でどうやって畳めというのだ。おまけに〆切は明日なのだ。
 この後の展開としては、詳細は未定だが日本の暗闇六歌仙を倒した後、詳細は未定だが世界各国を転戦しその国の幹部を倒していき、詳細は未定だが中国の暗闇四人組とかアメリカの荒野の暗闇七人とかブラジルの暗闇イレブンとかギリシャの暗闇十二神とかを出して、詳細は未定だがその過程で同様の境遇となった仲間を得て、詳細は未定だが最後にはパリの本部で死闘を繰り広げる、というストーリーになるはずだったのだ。詳細は未定だが。
 とにかく、悩んでいる時間はないぞ。そろそろ書き始めないと〆切に間に合わない。さて、どうするか。ここはやはり、「あの手」を使うか……。

「譲一、譲一ってば! いったいいつまで寝る気?」
 誰かが呼んでいる。譲一は重い頭をゆっくりと動かした。ずいぶん長い間眠っていたような気がする。しかし、眠っても、眠っても、まだ眠い。頭の中に澱ができたかのようだ。
「え? 食べたことないよ」
「もう。なに寝ぼけてんのよ。ほら、起きて」
 目を開けると、譲一の隣には見慣れた顔があった。最愛の恋人、亜季がベッドの上で上体を起こしている。お気に入りの紺のハイソックス以外は何も身につけていない、艶めかしい姿だ。小振りだが形のいい乳房が眩しい。
「……夢か。ずいぶんと長い夢を見ていたようだ」
 譲一はつぶやく。
「え? どんな夢?」
「いや、いいんだ、忘れよう。今、おれの横には亜季がいる。それだけで十分さ……」

<完>


 いかんいかん。夢落ちにしてしまいたいのはやまやまだが、これは現実的な方策ではない。こんな手を使ってしまったら、私の作家としての名声は、まあ大した名声じゃないが、地に落ちることは確実だろう。他の展開を考えなくては。
 どうするか。とりあえず、暗闇六歌仙の一人と対峙させてしまおう。

「ふふふっ、よくここまで辿り着いたわね。その勇気に免じて、暗闇六歌仙が一人、この切り裂き小町が直々にお相手してあげるわっ」
 譲一の目の前には、セーラー服を着て白のルーズソックスをはいた女子高生が一人。にわかには信じがたいほどかわいらしいが、間違いなくこの女がラング・ド・シャノワール日本支部の幹部なのだ。
 持参してきた武器も切り裂き小町の部下たちとの戦いですべて失い、満身創痍の譲一である。しかし、残る敵はただ一人。肉弾戦なら、勝てない相手ではない。

 やはり格闘技では譲一に一日の長があった。得意の南朝寺教体拳で、切り裂き小町を圧倒していく。しかし、壁際に追い詰められた切り裂き小町は不敵な笑みを漏らす。
「ふふっ、なるほど、どうやらこの姿のままじゃあ勝てないようね。そろそろ奥の手を出すかな」
 小町は譲一の正拳を避けると脱兎の如く駆け出し、部屋の反対側へ移動する。譲一との距離を取った小町は両手で印を結ぶと、なにやら呪文を唱え始める。体をオーラが包む。そして、かっと目を見開くと叫んだ。
「メタモルフォーゼ!」
 ショートカットの髪がうねうねとうごめき、内側から燐光を発散させながらまるで増えるワカメのように伸びていく。髪だけではない。体も変貌していた。全身が不気味に蠕動し、小柄な体が大きくなっていく。その姿はいわば筋肉オーケストラ、交響楽を奏でるような変身が終わると、小町はプロレスラーさながらの体格になっていた。
 そして不気味に微笑むと、どこからともなく巨大な血染めのチェーンソーを取り出した。
「この姿になったからには、もうあなたに勝ち目はないわ。そしてこれは、ホノカグツチ神の炎により鍛えられし伝説のチェーンソー、暗闇六歌仙六種の神器の一つ、ホノカグツチノコギリよ!」

 いかんいかん。調子に乗って書いていくとどんどん長くなってしまう。とにかく、この切り裂き小町だけは倒してしまわねば。

 血塗れで倒れた小町はすでに虫の息だった。譲一はかがみ込むと小町の手を取る。すでに憎悪も敵意もない。あるのはただ、死にゆく者への哀惜の念のみである。
「……あたしの負けね……さすがは飛鳥譲一……あなたなら、そう、あなたなら、ラング・ド・シャノワールを倒せるかもしれない……健闘を祈るわ……」
 譲一は黙ってうなずく。
「ところで……次の……鉄拳の康秀のアジトの場所はわかってるの?」
「ああ。比叡山中腹にある護法神社の地下だ。入り口の合い言葉もわかっている。隣の家に囲いが出来たってねえ。かっこいい。だ」
「ふふっ」苦しげな息の中で小町が笑う。「それは……先週までの合い言葉……それを口にすればたちまち蜂の巣にされるわ……」
「なんだと?」
「教えてあげる……今週の合い言葉はね……ぐふっ」
 小町が血を吐く。命の灯火が消えようとする中、気力だけで喋っているようだ。
「合い言葉は……隣の家に囲いが出来たってねえ。ブロック!」
 その言葉を最後に、小町は息絶えた。譲一は小町の両手を取ると、組み合わせて胸の上に置く。
 小町がなぜラング・ド・シャノワールの一員になり、どのように幹部にまで登りつめたのか、譲一には知る由もない。だが譲一は、ラング・ド・シャノワールを倒してくれという小町の魂の叫びを聞いたような気がした。
 まだ道は半ばにも達していない。敵は想像も及ばない規模の巨大組織、その日本支部の幹部の一人を倒したに過ぎないのである。未来への航路は霧に霞み、遙か彼方に小さな希望の灯が微かに望めるのみだ。
 譲一の果てしなき戦いの旅が、ここに始まる。

<完>


 いかんいかん。こんな中途半端な形で終わらせるわけにはいかない。いくら言葉を尽くして盛り上げようとしても、打ち切りをくらったことは一目瞭然ではないか。それは私のプライドが許さない。いや、打ち切りをくらったことが許せないのではなく、打ち切りをくらった作家だと世間に思われるのが許せないのだが。
 どうするか。物語に決着をつけるには、やはり、途中経過は一気に省略してでも、ベルサイユ宮殿での最後の戦いまで持って行かなければならないだろう。

 普段は美しい宮殿の中庭には夥しい数の屍が横たわり、その光景はさながら地獄絵図のようであった。
 譲一は膝をついて立上がる。この広い敷地の中に、生きて動いている者の姿は他に見えない。ただ血が、肉が、骨が、折り重なってどこまでも続いているように見えるだけだ。シートンの著作によればナウマン象は死期を悟ると吹き荒れる嵐に隠された谷にある墓場へと赴いて最期の時を迎えるというが、そんな風の谷のナウマン象の墓場を思わせる光景である。
 終わった。長かった戦いに、これで終止符が打たれたのだ……。
 ここに辿り着くまでに、多くのものを失った。心に沸き上がるのは勝利の喜びより、逝った仲間たちへの、そして敵たちへの、哀惜の念のみである。譲一自身も、幾度も死を覚悟した。それほど厳しい戦いだった。だが、だがしかし、とにかく今日、このように私は生きている!
 譲一は曇天の空を見上げる。その空から雨が一滴、ぽつり、と譲一の頬に落ちたかと思うと、突然の驟雨となった。まるで、この中庭で流された大量の血を洗い流すかのように。
 雨に打たれながら、譲一は、志半ばで倒れていった仲間たちのことを思い出していた。

 諜報活動のプロで、彼の相棒として常に戦いの先頭に立っていたベルンハルト・コムタン。陽気でお喋りで、笑顔を絶やさなかったベルンハルトは、ストーンヘンジの敵基地へ譲一の依頼に従って単身潜入し、卑劣な罠にかかって落命した。目を閉じれば今でも、ウインクをしながら「がってんしょうちのすけ」と言って笑うその姿がくっきりと甦ってくる。
 妻子をラング・ド・シャノワールに惨殺され、譲一と同じく復讐に立上がったヘンリー中辻。事務処理能力に長け面倒見のいいヘンリーは譲一たちのチームの雑務を一手に引き受け、名幹事として慕われていた。だがそのヘンリーも最後の最後で命を落としている。さっき殺気を感じた幹事さんは譲一をかばって凶弾に倒れた。
 素性は一切不明、譲一のチームに加わった理由も謎に包まれていた妖艶な美女、李愛鈴。密かに敵と接触するなど不可解な行動を見せることもあった愛鈴だが、最後には敵首領の正体に関する決定的な証拠と引き替えに死んでいった。あの麗しい、叙情的で情緒不安定な夜の蝶の姿ももう見ることはない。
 そして、亜季……。

 驟雨は降り出した時と同様、突然あがった。雲の切れ目から初夏の陽光が射し、宮殿の上に虹がかかる。
 譲一は空を見上げ、亜季の笑顔を、そして亜季の好きだった詩の一節を思い出す。それはまさに、今の彼にふさわしい詩だった。


 私の頭上の青空を旅する雲が
 私に、ふるさとへ帰れ、と言っている。

 ふるさとへ、名も知れぬ遠いかなたへ、
 平和と星の国へ帰れと。

 (ヘルマン・ヘッセ詩集より)

<完>


 いかんいかん。なんとか最終回らしくなったとはいえ、はなはだ盛り上がりに欠ける。だいたい、そのベルンハルトとかヘンリーとか愛鈴とかいう奴らは誰なんだ。活躍して愛着のあったキャラを思い出して懐かしんでこそ感動が沸き上がって来るというのに、こいつらはこの一節にしか登場しないではないか。それから、亜季がヘッセの詩を好きだったなんていう設定があったか? ラストを綺麗に飾りたいからとはいえ、伏線もなしに出してはいかん。こんないいかげんな執筆態度では、読者を感動させることなどできないぞ。
 ダメだ。この手も使うわけにはいかない。いったいどうすればいいのだ。万策尽きたぞ。いっそのこと死んでしまいたい。困り果てて窓の外を見ると、いい枝振りの松が目に入った。まるで縄を掛けてくれと言っているかのような。
 そうだ。生きて天寿をまっとうしていれば大して評価もされなかったはずの芸術家が、若くして夭逝したために実力以上に評価される、というのはよくある話だ。いっそのこと、私もここで死んでしまえば。ふふふ、そうだ、苦悩の芸術家として名が残るだろう。ふふふ、そうだ、ひょっとして若くて可愛い女性ファンが何人か後追い自殺でもしてくれるかもしれない。そして私の名は、伝説として永遠に語り継がれるのだ。そんなのも、ちょっと悪くない。




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