第266回   タクシーねえさんの伝説  1999.7.4





 いろいろあって、会社を出たのはすでに午前零時をかなり回っていた。
 すでに終電はない。やむを得ず、タクシーを拾うことにした。しとしとと降り続く雨の中、傘をさして足早に大通りまで歩く。行き交う車のライトが雨に霞むのをながめながら二三分待つと空車が通りかかったので手を挙げた。
 乗ったタクシーは、最近けっこう見るようになった女性運転手だった。とは言っても、妙齢の美女ということはなく五十がらみのおばさん運転手だったが。まあいい、別にそんな動機でタクシーに乗っているわけではない。それに男性運転手の場合も、妙齢の美男子にあたることなど滅多にないからおあいこである。
 何がおあいこなのかよくわからないが、ともかくその運転手は話し好きらしかった。道すがら、いろいろなことを話しかけてくる。こちらが聞いていようがいまいがお構いなしに、勝手に喋っているのだ。
「そうそう、奇妙な話と言えば」
 と、その運転手は続ける。
「この前、妙なお客さんを乗せたんですよ。ええ、やっぱり、こんな雨の降る夜でした。真っ白な服を着た、二十五六くらいの女性でねえ、髪が長くてすごく美人なんだけど、どことなく陰があるような感じで。それで、か細い声で行き先を告げたんですよ」
 む。ひょっとしてこれはあれか。あの話か。
「あたしがいくら話しかけても、うつむいて黙ったままでねえ。仕方がないからあたしも、途中で喋るのやめちゃって。で、その後はずっと黙ったまま、やっと目的地の家に着いたんです。お客さん、着きましたよ、そう言って振り返ると、そこには……」
 やっぱりそうか。あの話か。
「なんと、そこには誰もいなかったんです。あの女性の姿はどこにもない。あたしは、しばらくぶるぶると震えてましたよ。で、ようやく気を取り直して、その家のベルを押してみると、中年の女性が出てきましてねえ。あたしが事情を話してみると、突然しくしくと泣き出すんです。それは私の娘です、大病を患って入院してたんですが、先日息をひきとりました、娘は家族のいるこの家に帰りたがってましたから。なるほどねえ、と納得したあたしは、その娘さんの遺影に線香をあげさせてもらいました。……あっ、タクシー料金は、そのお母さんからきちんといただきましたよ」
 そうそう、その話である。いったいこの話、何回聞いたことだろう。タクシーに乗る妙齢の女性の幽霊、これも非常に有名な都市伝説だ。手を変え品を変え、日本中で語られた回数は五十六億七千万回を数えるという。
 いや、日本だけではない。この伝説は世界中に分布している。都市伝説の研究書によれば、アメリカでは一九三〇年代のはじめから新聞にもしばしば登場しているというし、日本占領下の韓国、十九世紀のイギリスやロシアや中国、江戸時代の日本などにも同様の話が伝えられている。もちろんこの場合はタクシーではなく、馬であったりカゴであったり馬車であったり徒歩であったりするのだが。
 さらに時代をさかのぼれば、新約聖書使徒行伝には使徒ピリポがエチオピア人の二輪戦車から消滅する話が書かれているし、エジプトの遺跡から発見された紀元前十五世紀の石版にもセト神のエピソードの一つとして語られているし、ラスコーの洞窟からもこの伝説を描いたと思われる壁画が発見されているのだ。ここまで来ると、もはや人類の集合無意識の中に刷り込まれているとしか思えない。
 まあ、それはともかく。その運転手の話は、まだ終わりではなかったようだ。
「そんなことがあってから、数日後の話です。同じように雨の降る夜、あたしはその女性を乗せたのと同じ道を空車で走ってました。視界の悪い中、向こうから二つのヘッドライトが近づいてきたんです。ああ、トラックだな、かなり飛ばしているな、と思ったとたん、そのトラックは車線をはみ出してあたしの車の正面に突っ込んできました。とてもじゃないがよけられません。そしてあたしは……」
 運転手はそこで言葉を切り、ふふふ、と小さく笑う。
 なんだその笑いは。そしてあたしは、どうなったというのだ。まさか、その事故で死んでしまったのではあるまいな。まさか、運転手が幽霊だったというオチではあるまいな。
「……なんてね。いや、冗談ですよ冗談。びっくりしました?」
 こらこら。よりによってこの状況でそんな冗談を飛ばすとは。まったく困った運転手だ。
「……とか言っているうちに着きましたよお客さん。……お客さん? ひえええ、い、いないっ!」
 驚く運転手を残し、私はタクシーのドアをすりぬけ、家の扉をすり抜け、自分の部屋へと戻ってきた。四階の窓から転落し息絶えた私の体は、会社の中庭で雨に打たれているはずだ。そろそろ警備員に発見されているだろうか。そして、私の魂だけはタクシーに乗って自宅に帰ってきたのである。しかし、よく考えてみれば、帰ってきたところで待っている人がいるわけでもなかったな。
 ドアをノックする音が聞こえる。あの運転手のようだ。どうやら、どうあっても料金だけは徴収しようという気らしい。さすがはプロである。しかし、本人がのこのこ出ていって払うのもおかしなものだし、なにより今は持ち合わせがない。幽霊だけにお足がありません、って、最期のギャグがそんなのでいいのか私よ。



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