第280回   リセットボタン  1999.10.4





 太陽が中天に輝く快晴の空。さわやかな風が頬をなでる。駅前の商店街は昼下がりのけだるさに包まれていた。しかし、平和な外観にだまされてはいけない。今、この町はゾンビに支配されているのだ。
 私はあたりに注意を払いながら、銀行に入っていった。自動ドアが開くと、中にいた者たち、客も、銀行員も、一斉にこちらを向く。まずい。こいつらは全員ゾンビだ。ゾンビたちは両手を前に突き出し、異様なうめき声を上げながらこちらに近づいてくる。私はきびすを返して逃げ出した。
 商店街を走る。通行人たちが私に気づき、やはりうめき声をあげながら追いかけてくる。こいつらもゾンビだ。
 私はJRの線路をくぐる地下道に駆け込んだ。必死で走る。もうすぐ出口だ。なんとか逃げ切れる。と思ったとき、出口に人影が見えた。あいつらもゾンビだ。まずい。はさまれた。
 私は、なすすべもなくその場に立ちすくんでいた。ゾンビたちは両側から徐々に近づいてくる。もはやこれまでか。最後の救いを求めてあたりを見まわす。すると、コンクリートがむき出しの壁に妙なものがあるのに気が付いた。ボタンだ。灰色の、一円玉ほどの大きさのプラスチックのボタン。中心には黒い文字で『RESET』と書かれている。なんだこれは、と考える前に、私はそのボタンを押していた。

 布団の中で目が覚めた。体中にびっしょりと汗をかいている。
「夢か……」
 私は思わずつぶやいた。設定の奇抜さは別として、細部は妙にリアリティがある夢だった。しかし、リセットボタンを押すと目が覚めるとは、なかなか親切な悪夢である。
 などと一人で苦笑しながら枕元の時計を見た私は愕然とした。すでに八時半を過ぎている。今日は九時から、事業部長も出席する重要な会議があるというのに。これでは完全に遅刻である。あわてて服を着替え、顔も洗わずに飛び出す。
 家から駅までの道、駅から会社までの道を必死で走ったが当然間に合わなかった。そっと会議室の扉を開けると、すでに会議はたけなわだった。足音を殺して入っていく私の方を、刺すような視線でにらんだのが数人、残りは私のことなど無視している。私は身が縮む思いで、隅の方の席に腰を下ろした。
 案の定、会議が終わると課長の叱責が待っていた。私は課長のデスクの前に立ち、神妙な顔でそれを聞いている。こんな重要な会議に遅刻するとは何事だ。だいたい、普段から君はたるんでる。前にもあんなことがあった。こんなこともあった。少しは成長したらどうなんだ。課長の言葉は果てしなく続き、次第に私も我慢しきれなくなってきた。
 ふと課長のデスクを見ると、ちょうど私の右手のすぐ前あたりに見覚えのあるものがあった。灰色の小さなボタン。『RESET』と書かれている。これは先ほど、夢に出てきたリセットボタンではないのか? 昨日まで、いや、ついさっきまで、ここにはボタンなどなかったのに。
 などと悩むのもそこそこに、私はそのボタンを押していた。

 気が付くと私は、自分の家の布団の中にいた。反射的に時計を見る。まだ七時過ぎ。大丈夫、会議には十分に間に合う時間だ。
 顔を洗いながら私は考えていた。すると、今の出来事も夢だったのか。しかし、夢にしては現実味がありすぎた。全力疾走したときの苦しさ、会議でのリアリティのある会話、課長の叱責、とても夢とは思えない。だが、あのリセットボタンは……。
 悩んでいても結論が出るはずもなかったので、あきらめて私は会社に向かった。遅刻せずに会議に出席し、いくつか気の利いた発言もして、終わった後に課長にほめられた。まったく、リセットボタンさまさまである。

 そして。
 その後もリセットボタンは、ことあるごとに私の目の前に現れた。仕事上で小さな失敗をしてしまったとき、友だちと些細なことでケンカをしてしまったとき。ボタンは、気が付いたら私の目の前にある。デスクの上、トイレの壁、駅のホーム。しかし私は押さなかった。押したければいつでも押せる、という安心感もあったし、まだまだボタンを押すほどせっぱ詰まった状況じゃないな、とも思ったからだ。押さなければ押さないで、失敗もけっこう取り返しがつくものである。そして押さずにいると、やがてボタンはいつの間にか消えていた。
 誰もがしり込みするような困難な、しかし成功すれば成果も大きい仕事を、自ら志願しておこなったこともあった。いざとなればリセットボタンを押せばいい、と思ったからだ。志願したときも、そしてその仕事の最中もボタンは何度か私の前に現れた。しかし私は結局ボタンを押さず、開き直ったのが功を奏したのか結局その仕事を成功させていた。社内での私の評価は一気に上がった。
 誰もが高嶺の花と思っていたあの人に、思い切って愛を告白したこともあった。やはり、いざとなればリセットボタンを押せばいい、と思ったからだ。しかし意外にも告白は受け入れられ、私たちはつき合うようになった。
 その後の私の人生は成功続きだった。いざとなればリセットボタンを押せばいい、と思うだけでこうも大胆に積極的になれるのである。もちろん、小さな失敗はいくつかあり、ボタンも何度も出現したが、一度も押さなかった。私は、この人生をけっこう楽しんでいたのだ。

 そしてある日、私はとある地方の客先へ出張へ行くことになった。重要な商談である。
 相手先との約束の時間には十分余裕を見ていた。しかし、新幹線が事故で遅れたために結局ぎりぎりになってしまったのだ。駅を小走りに走り出る。ちらと横を見ると、階段の脇に例のリセットボタンがあった。なあに、まだまだボタンを押すほどの事態ではない。そう考えて私は早足で歩く。商店街を抜け、人通りのない細い道に差し掛かったとき、それは起きた。
 突然、横の道から車が飛び出てきた。為すすべもなくはね飛ばされ、私の体は宙に舞った。地面に叩きつけられ、激痛が全身を襲う。どこをやられたのか、道路に大量の血が流れ出す。
 車からは中年の男が出てきた。道路に横たわってうめいている私の姿を見て、かなり動転している。「もう終わりだ」「これでは会社もクビに」「なぜこんなことが」などと言いつつおろおろとするばかりである。早く救急車を呼んでくれ。そう言おうと思ったが、激痛で声が出せなかった。他には人も車も通らない。早く。早く助けてくれ。こんなことで死にたくはない。
 うめきながら顔を上げると、三メートルほど先の電柱にボタンがあった。例のリセットボタンだ。そうだ、今こそボタンを押すときだ。私は激痛をこらえながら体の向きを変える。足もやられたのか、立てないので這って電柱に近づいていく。
 やっと電柱の根本までたどり着いた。もう少しだ。私は上体を起こし、右手を伸ばしてボタンを押そうとした。
 そのとき。
 横からさっと手が伸びて、私より先にボタンを押していた。驚いて見上げると、車を運転していた男だ。
 男はボタンを押すと、明らかに安堵した表情を浮かべた。そして次の瞬間、男の姿はかき消すように消えていた。電柱のリセットボタンも消えていた。
 だめだ。もはやこれまでだ。
 私の意識は、次第に薄れていった……。




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