第281回 心中問答歌 1999.10.13
「ご隠居さーん、いるかい? おーい、ご隠居さーん」
「なんだい、誰かと思えば熊さんじゃないか。いるかもいないかもないだろう。一間っきりの長屋なんだ、さっきからあんたの目の前にいるよ」
「おや、ご隠居、こんなところで会うとは奇遇ですなあ」
「何を言ってるんだい。で、今日は一体何の用だね?」
「へえ、今日はちょいとご隠居に、知恵を借りたいと思いましてね」
「ほう、なんだい」
「ええ、実は、ここだけの話ですがね、うちのかかあが『曽根崎心中』ってえ芝居を見に連れていけってうるさいんでさあ」
「ほう、今はやりの芝居だねえ。連れていってあげなさいよ」
「そうは言ってもねえ、なかなか先立つものがなくて」
「たまにはかみさん孝行をしてあげてもいいじゃないか。だいたい、熊さんがそうやって元気に働いていられるのも、かみさんの内助の功のおかげだろう?」
「いや、そんなことはないじょ」
「何をくだらないことを言ってるんだい。かみさんが聞いたら怒るぞ」
「ご隠居さんの前だから言うんでさあ。だいたい、こんな恐ろしいこと、あっしが面と向かって言えるはずがねえでしょう。しくしくしくしく」
「ほらほら、でかい図体してめそめそするんじゃないよ。で、そもそも知恵を借りたいってのは何なんだい?」
「それそれ、それなんでさあ。曽根崎心中ってえ芝居のあらすじを教えてもらいてえんで。あっしがあらすじを話してやれば芝居に連れて行かなくてもすむし、ご隠居さんの話を聞くだけならタダだからねえ」
「ちゃっかりしてるねえ、どうも。ううむ、しかし、曽根崎心中か、ううむ……」
「何をうなってるんで? ははあ、さては、ご隠居さんもどんな話か知らねえんだな。へへへっ」
「な、なにを言うんだい。知らないことはちっとも恥ずかしいことじゃないぞ。知らなければ調べればいいんだ。さいわい、今はこんな便利なものがある」
「ほほう、立派なウラン沈殿槽だねえ」
「何を無理矢理ボケてるんだい。パソコンに決まってるじゃないか、パソコン」
「うわっ、危ねえ危ねえ。そっちの方がよっぽど危ねえや。パソコンといえば確か、ビル・ゲイツという大悪人が世界征服のために作ったといわれる悪魔の機械……」
「こらこら、滅多なことを言うもんじゃないよ」
「悪口を言うと『ゲイツの騎士』が刺客として差し向けられますかい?」
「やめなさいってば。いいかい、このパソコンを使ってインターネットで検索すれば、知りたいことがたちどころにわかる、というもんだ」
「へえ、便利な世の中になったもんだねえ。あっしが子供のころなんか、まだラスコーの洞窟に壁画を描いていたというのに」
「いちいち混ぜっ返すんじゃないよ、話が全然進まないじゃないか。そもそも、曽根崎心中のことを聞きに来たんだろう?」
「そうそう、そうでした。ではご隠居、そのインターネットとやらで、ぽりっと一発おねげえします」
「どうも引っかかる言い方だねえ。まあいい、やってみよう。えーと、ここをこうして……こっちはこう……それからこれ……と、よし、できた」
「見つかりましたかい?」
「やっと電源が入ったところだ」
「ご隠居〜」
「悪い悪い、わしが話を遅らせちゃあいけないな。よし、今度は大丈夫だ。まず、プロパティをTCP/IPして、プロクシとDLLファイルとダイヤルアップをシフトJISでショートカットして……」
「ご隠居〜、ちゃんと意味わかって言ってるんでしょうね?」
「うるさい、静かにしなさい。繋がればいいんだよ繋がれば。……よし、これでOKだ。出たぞ出たぞ」
「えっ、どれどれ、あっしにも見せてくだせえよ」
「ほらほら、そうあわてるんじゃないよ。わしがかいつまんで説明してあげるから。ええと、なになに……昔々、大坂は曾根崎のあたりは海だった」
「はあはあ」
「水が澄んだきれいな海で、アコヤ貝がいっぱいいた。だから、真珠もいっぱいとれたんだ。大粒の素晴らしい真珠でな、この真珠のことを、いつしか曾根崎真珠と呼ぶようになったのだ」
「ご、ご隠居〜。その話はちょっとアヤしいんじゃねえですかい?」
「何を言うんだい。インターネットで検索したんだから、確かなことだよ」
「そうは言ってもねえ……」
「だいたい、わざわざウソを書いて他人をだますような人がそうそういるわけないじゃないか。もっと人を信じなさい」
「へえ、まあ、ご隠居がそう言うなら……」
「そうそう、素直が一番。……おっと、こっちのホームページにはもっと詳しく書いてあるぞ。ええと、なになに……これは元禄十四年四月七日に起こった心中事件のことである」
「おっ、今度はなんだかホントっぽいねえ」
「心中したのは、堂島新地の天満屋の遊女お初と、船場の醤油問屋平野屋の手代徳兵衛。この二人の心中の方法というのが一風変わっていて、一緒に激しい運動をして心臓麻痺であの世へ行ったのだ」
「は、激しい運動ですかい? うひ、うひひひひ」
「どんな想像をしているのかだいたいわかるけど、それは違うぞ。立って、上体をまっすぐにしたまま膝を屈伸させる。やってみるとわかるが、これは意外ときつい運動だ」
「はあ、そうですかい」
「心中事件以来、この運動はこう呼ばれるようになった。心中スクワット」
「ご、ご隠居〜。やっぱりその話はちょっとアヤしいんじゃあ……」
「だから、もっと人を信じなさいと言うのに。……おっと、こっちのページにはさらに詳しく書いてあるぞ。ええと、なになに……徳兵衛は、平野屋の旦那に返すはずの銀二貫目を、油屋の九平次という男にだまし取られてしまった。さらにその九平次のたくらみにより、徳兵衛が借用書を偽造したかのような評判が立ったんだ」
「ほらご隠居、やっぱり他人をだますようなヤツがいるじゃねえですか」
「うっ、まあそう言わずに黙って聞きなさい。一気に社会的信用を失ってしまい不幸のズンドコに落ちた徳兵衛は、自らの身の証を立てるために死を決意する。そこにあらわれたのが遊女のお初、お前一人を死なせるものかと、死出の旅路をともにする。帯は裂けてもぬし様と、わしが間は世も裂けじ〜」
「いよ〜っ、ベンベン」
「合いの手はいらないって。……この二人が命を絶ったのが、曾根崎新地にある露天神社の天神の森の中だ。それ以来、この神社はいつしかお初天神と呼ばれるようになった、とのことだ」
「へえ、お初は遊女から神様になったわけか。えらい出世だねえ」
「出世ってこともないと思うが……おっ、まだ続きがあるぞ。それからというもの、お初天神でお祭りがあるときは、決まってある歌が歌われるようになった」
「へえ、どんな歌ですかい?」
「こんな歌だな。♪村の心中の神様の〜今日はめでたいお祭り日〜」
「ご、ご隠居〜、やっぱりその話は……」
「ええい、みなまで言うな。ワシもちょっとアヤしいんじゃないかと思い始めたところだ」
「でしょお? そんないいかげんな話じゃあ、かかあが納得するわけねえよなあ」
「ううむ、やはりインターネットに頼るのは間違いだったか。こうなったら仕方がない、熊さんや。やっぱりかみさんを芝居に連れていってあげなさい」
「いや、そうは言っても先立つものが……」
「だから、ここは一発、競馬とかパチンコとかで一攫千金を狙ってみちゃあどうだい?」
「ダメダメ、あっしは賭け事にはめっぽう弱いんでさあ」
「まあそう言わずに、思い切ってやってみたら勝つかもしれないじゃないか。勝負は下駄をはくまでわからない、って言うだろう?」
「いや、やっぱりダメだご隠居。心中だけに、下駄が揃えて脱いであったらすぐにわかります」
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