第285回   サル山の一夜  1999.11.8





 もちろん個人差はあるのだが、「かわいいと思う動物は?」と聞かれた場合、答となる動物はだいたい決まっている。ラッコ、コアラ、アライグマ、パンダなどである。
 これらの動物には共通点がある。まず、外見が人間に似ている、しかし似すぎてはいない、という点。そして、その動作やしぐさは人間によく似ている、という点。すなわち、人間に似ていないものが無理してたどたどしく人間の動作を真似しているように見えるので、人はそこに赤ん坊のような、あるいはぬいぐるみのような「かわいさ」を感じるのだろう。
 この「人間に似ているが似すぎてはいない」という点はけっこう重要である。ヘビやトカゲやフキダラソウモンなどという動物になると、これはもう外見が人間とは違いすぎるので親近感の持ちようがない。逆に、チンパンジーやゴリラなどという動物だと、これは人間に似すぎていて、かえって気持ちが悪い。あくまで、「そこそこ人間に似ている」ことが重要なのだ。

 では、なぜチンパンジーやゴリラなどのサル類が人間に似すぎているのかというと、もちろん進化的に近縁だからである。人間がサルから進化したのはわずか数百万年前。二十億年の生命の歴史からすればつい昨日のことである。人間とチンパンジーは、遺伝子の98%が共通だとの話もある。残りの2%がどの程度の価値を持つのかといえば、まあおそらく、頭髪三本分程度の違いだろう。
 サルから人間が進化した経緯については、実はまだわかっていないことが多い。どこで進化したのか、どのような突然変異があり、どのような淘汰圧がはたらいたのか、進化が起こったのは一回だけなのか、ひょっとして、今もどこかで進化が起こっているのではないか。
 そんな馬鹿な、と笑ってはいけない。実は、サルが一夜にして人間へと進化したと思われる事件が発生しているのだ。日本、それも大阪での事件である。

 1986年8月7日、その事件は大阪市の天王寺動物園で起きた。
 午前6時、飼育係の村上則和(仮名)は、当直の宿舎で目を覚ました。セミの声がうるさく響く、いつもと同じ暑い夏の朝だったが、なぜか異様な胸騒ぎを感じた、と後に村上は語っている。
 彼はいつものように園内の見回りに出掛けた。夜行性の動物たちはすでにねぐらに戻っているのか姿が見えない。あたりは開園前ののどかな雰囲気に包まれていた。餌を求めて寄ってくるハトたちを軽くあしらいながら、ニホンザルたちのいるサル山に差し掛かったとき、彼の心臓は凍り付いた。サル山の中腹辺りに、異様な生物の姿が見える。
 その姿が、しかるべきところにあったのなら、彼も決して驚きはしなかっただろう。しかしそこにいたのは、このサル山にはあり得べからざる姿だったのだ。その姿は……まるで「人間」のように見えた。やや小太りの、中年の男性。髪の毛はボサボサで無精ひげが伸び、顔はこころもち赤い。服や下着は一切身に付けておらず、裸の体は土や泥で汚れている。そんな「人間」が、サル山の中腹でいびきをかいて寝ていたのだ。
 その姿を見つめたまま、村上はしばし呆然としていた。しかし、しばらくして我に返ると、事態の重要性に気付いた。まさかこれは。サル山に住むニホンザルが、一夜にして人間の姿に進化してしまったというのか。これは世紀の大発見、まさにノーベル賞クラスの偉業である。彼は全速力で宿舎に戻ると同僚たちをたたき起こし、園長へ電話をかけた。
 園長をはじめとする関係者はただちに集結し、善後策を協議している。その間に、村上たち現場の職員は「進化したサル」の保護をおこなうことにした。いかに昨日まで同じニホンザルだったとは言え、現在の外見はニホンザルとは違いすぎる。他のニホンザルたちから攻撃されたりすることは避けねばならない。彼らは鋼鉄製の檻を用意し、サル山に向かった。
 幸い、他のサルたちもまだ眠っているようだ。彼らはサル山に上り、眠ったままの「進化したサル」を檻に入れた。なぜかアルコール臭のような異臭が漂っていたが、その姿はまったく人間にしか見えなかった、と後に村上は語っている。一夜にしてこれだけの進化が起きるとは。いかなる進化の奇跡のもたらしたものか。ここに新たに人類の一員が誕生したのだ。彼らは感動にうち震えた。
 檻を運んでいるとき、振動で目が覚めたのか、その「進化したサル」がこのような奇妙な声で鳴いた。
「うい〜、くそきょじんどもは〜はんごろしや〜。ことしもはんしんが〜ゆうしょうやで〜、ひっく」
 その鳴き声は、まるで人間の言葉のように聞こえたという。
 奇妙なことに、記録に残っているのはここまでである。この「進化したサル」は、これ以後かき消すようにいなくなってしまったのだ。天王寺動物園の公式記録にも何の記載もない。8月7日を境にサル山のニホンザルの数が一匹減っていてしかるべきなのに、そのような記録もない。当時の関係者たちを問い詰めても口を閉ざすばかりである。いったい、この「進化したサル」はどこへ消えてしまったのか。学術研究と称して解剖されてしまったのか、あるいはサルから人間が進化したと認めたくない団体によって闇へ葬り去られたのか。首尾よく人間たちの手を逃れ、今もどこかの山中で生き延びているものと信じたい。

 公式記録からは抹消されているとはいえ、このような事件が起きたのは事実である。しかし、この事実を前にすると、ひとつの疑問が浮かんでくる。それは、なぜニホンザルだったのか、という疑問だ。
 一夜にして人間に進化したのが、チンパンジーやゴリラ、オランウータンなどの類人猿ならばまだ理解できる。彼らは動物の中でもっとも人間に近い存在だからだ。しかし、ニホンザルはサルとはいえ人間とはそれほど近縁ではない。ニホンザルが人間に進化するためには、越えなければならないハードルが高すぎるのだ。あのニホンザルはどうやってこのハードルを越えたのか。調査を進めていくうちに、ニホンザルのある特徴に気が付いた。
 世界的に見ると、サルという動物は暖かい地域に生息している。ほとんどの種は熱帯や亜熱帯のジャングルに生息していて、ニホンザルのように温帯に住んでいるのはごく一部である。中でもニホンザルは、他のサルがまったく見られない豪雪地帯にも生息している。ニホンザルの住む青森県の恐山はサルの生息北限地となっているほどだ。ここを訪れた海外の研究者は雪深い山に住むサルを見て一様に驚きの声を上げる。そして、温泉に入るサルを見て腰を抜かすのだ。それほどニホンザルは世界的に見ても特徴的なサルなのである。余談だが、この温泉は腰を抜かした研究者たちの療養にも一役買っているという。

 一方、サルに対して人間はどうか。ご存知のとおり、熱帯から寒帯まで地球上のあらゆるところに生息している。進化してさまざまな環境に耐えられるようになったからこそ、人間がここまで繁栄したのだ。それを考えれば、なぜニホンザルだったのかという疑問にも自ずと答が出てくる。ニホンザルは、サル類の中では例外的に寒さに強い種である。温帯や亜寒帯を生息地としているが、そこは人間にとっても住むのにもっとも適した地域である。まさに進化の揺籃、この日本の気候がニホンザルの進化を促したと言っていいだろう。日本に住んでいたからこそ、類人猿たちを差し置いて人間に進化することができたのだ。

 では、ニホンザルの次に人間に進化しそうなサルは何か。
 議論はいろいろあるだろうが、私見ではアイアイが有力だと考える。アイアイは熱帯産のサルではないか、と単純に考えてはいけない。実は、サルの生息北限地と言われる青森県よりもさらに北、北海道にもサルが住んでいる、あるいは住んでいたとの説があるのだ。そのサルとは、もちろんアイアイである。その証拠に、この日本には昔からこんな歌が伝わっている。
「♪アイアイ、アイアイ、小樽産だよ〜」




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